23日(火曜日)、ニューヨークのホテルで写真家のジム・マーシャル(
Jim Marshall)が亡くなった。74歳だった
サンフランシスコに住んでいるジムは、友人の写真家ティモシー・ホワイト(Timothy White)と共に最近出版した「マッチ・プリント(Match Prints)」のプロモートのためにニューヨークを訪れていた。
水曜日の夜はジョン・バルベイトス(
John Varvatos)のストアーでイベント、スタレー・ワイズ・ギャラリー(
Staley Wise Gallery)では、金曜日から始るエキシビジョンのオープニングにそれぞれ参加する予定だった。
詳しい死因は発表されていないが、モリソン・ホテル・ギャラリー(
Morrison Hotel gallery)ニューヨークでのジムの代理人は、睡眠中にそのまま亡くなったようだと語った。
ベビー・ブラウニー
ジェームズ・ジョセフ・マーシャル
1936年2月3日シカゴ生れ、その2年後に一家はサンフランシスコへ引越した。父親は塗装業者だったが、ジムが少年の時彼の元を去っていった。母親はランドリーで仕事していた。子供の頃はコダックのベビー・ブラウニーでよく遊んだ。ベビー・ブラウニーで撮った写真は全てがぼけた感じではっきりとした画像をを得ることは無かった。
ジムが中学生のとき学校の徒競走で一番になった。そのときの姿をある人が写真に撮った。ジムはその写真を見て驚いた。何故ならその写真はぼけてなくちゃんとピントが合っていたからだ。それは初期のライカだった。ジムはアパートに帰り、雑誌からライカの写真を切抜きスクラップブックに貼付け鉛筆で値段を書込んだ。そして思った「あの人は魔法の箱を持っている」
高校のときは自動車レースに出たり、スクーターのセールスマンや保険の仕事やら色んな仕事に手を出した。
1950年代後半、空軍の仕事から戻ったジムは、大枚を頭金にてライカM2を手に入れた。
そして、1960年、偶然にコルトレーンと出会う。ジムはコルトレーンにクラブまでの道順をたずねられたのだ。ジムはコルトレーンに「もし写真を撮らせてくれるのなら僕の車でクラブまで送ってあげるよ」と言ったのだ。
ジムが実際に使用したライカビットM4(ズミルックスM/35mm)
その後はマイルス、モンクやなどのジャズ・スターやサンフランシスコのサイケデリック・グループ、そしてジム・モリソン、ザ・フー、レッド・ツェッペリン、ニール・ヤング、オールマン・ブラザーズ・バンドなど60年代から70年代にかけての数多くのロック・バンドも撮影するようになる。
1962年にはグリニッジ・ビレッジに引越した。近所にはボブ・ディランやジュディー・コリンズがいたが2年でサンフランシスコへ戻った。彼の作品はローリング・ストーン誌やその他多くの雑誌に掲載され500以上のアルバムに彼のクレジットが記載されている。
ジムは写真を撮るために、ミュージシャンに対し、特別なアクセス権を要求し、彼はそれをいつも得ていた。アーティストに対して無制限に近づけるという事は、彼の唯一で絶対の条件だった。
中には、その絶対的条件に抵抗したアーティストもいた。バーブラ・ストライザンドだ。それを告げられたジムはたじろぎ、愕然としてバーバラをののしりその場から立去った。
ウッドストックでのジム
短気で扱いにくいジムだが、多くの人達が彼の条件に同意し彼と友人になった。1966年、サンフランシスコでのビートルズ最後のコンサート、そのバック・ステージに入ることを許可された唯一の写真家、1969年ウッドストックではハウス・カメラマン、1972年ストーンズのツアーでの密着取材、クロスビー・スティルス&ナッシュの最初のレコーディング・セッションなど。
栄光に満ちた写真家人生だったが70年代の半ば頃には、コカイン中毒でほとんど仕事が出来なくなった。しかし彼はそのことを隠さない。「成功のおごりで苦しんだ。コカインは事態をいっそう悪くさせた」1997年のインタビューでそう答えている。
その当時は、卑猥な言葉を叫びながら銃を振回したり、「敵」と称して近所や当時の妻の男友達を銃で撃って警察に捕まってりもするが、野良犬など飼主のいない動物の面倒をみたり、若い写真家のスタートの手助けをしたり、貴重なプリントを友達や仲間に気前よくプレゼントしたりと特大の優しい面もあった。
身近に家族がいなかったジムは、ゆっくりとキャリアを復活させ80年代の後半には若いミュージシャンと仕事をするようになった。彼の技術と威信は、しばしば若いミュージシャンから必要とされた。例えば、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやカルト、ベン・ハーパーやジョン・メイヤーなどだ。
ローリング・ストーン誌のジェイソン・ファインが
回顧録を寄稿している。
最近、ニューヨークのジムと彼のお気に入りのバーでスコッチを飲んだ。私は彼自身の写真から何を見いだすかを聞いてみた。「俺に分かるわけないだろ?」彼は言った。「俺はそこに居た。そして何枚か写真を撮った。それだけだ。それに何の意味があるのか知ったこっちゃない。決して意図を持ってやった事じゃない」強気の発言をしているように見えた。そして、72歳にしては確かにかっこよく見えた。そう言いながらも、写真の裏話を話してくれた。すると彼はニコニコと笑い始め、そしてアーティスト達との関係を思いだした時には涙にあふれていた。「俺は全てのミュージシャンを愛している。奴らはまるで家族のようだ。振返ってみて気付いたんだ。何か特別な事が起り初めていた。俺は、それを目撃している歴史家のようだ。奴らは誠実だったよ。それを誇りに思う。信じられない事だが、本当に素晴しい物を捕えたんだ。その事を考えるのは気分がいい」
John Coltrane taken at the home of Ralph Gleason in 1960
これは、お気に入りの一枚だ。ラルフ・グリースン(音楽評論家)の自宅で撮った。ジョンと私はジャズのワークショップで会った。バックステージで話したんだ。ジョンが「明日、ラルフ・グリースンのインタビューで行かなくてはいけないだが、バークレーへはどうやって行けばいい?」て言うから「乗せてってあげるよ」って言ったんだ。で、次の日ホテルで彼を拾って送っていって、写真を撮ったのさ......ジム・マーシャル
Janis Joplin in 1968, backstage at San Francisco's Winterland
この写真は公開すべきじゃ無いと言われたが、多分、酒のビンを握りしめ、美しくもない足をさらけだしているからだろう。だからと言ってその忠告には死んでも従わない。ジャニスは良い写真だと言ってたが、だからじゃない。この写真には力がある。率直でそしてパワーがある.....ジム・マーシャル
Johnny Cash San Quentin Prison in 1969
看守のために1枚撮ってやろうとジョニーに言った。指を立てることは彼にとっては自然な反応だったんだろう......ジム・マーシャル
この写真は、「何故ディランがタイヤを転がす姿を写真に撮らせたのか」という下らない事で物議をかもしだした写真だ。ジム・マーシャルは、そこに何も謎みたいな物は無いときっぱりと言ってる。「彼は近くにあったタイヤを拾い上げて転がした。ただそれだけのことだ」と......
ティモシー・ホワイトとの共著「マッチ・プリント」は2人の同じ様な構図の写真を対比させるという内容だが、ジム・マーシャルの上記ディランの写真に対してティモシー・ホワイトはジュリア・ロバーツのこの写真が載せられている。
Annie Leibovitz
ジム・マーシャルを「The RocknRoll Photographer」と呼んだのはアニー・リーボヴィッツらしいが、彼女がジム・マーシャルをロックンロール・カメラマンと呼ぶなんて何か皮肉めいて聞えなくもない。それは、両者の写真に対するアプローチは両極端な位置にあるからだ。ジムは本人も言ってるように作為的な事を好まない、アーティストに指示するのも大嫌いだ、照明も、もっぱら自然光を好み、ドキュメンタリー的に撮る。片やアニー・リーボヴィッツ。完璧なディレクション、それは、自分のイメージに近づけるためには金に糸目を付けないほどの完璧主義者。それがたたって破産の危機に瀕している。ある意味こちらもロックだねぇと言いたくなるほどだ。
有名写真家アニー・リーボヴィッツ氏に破産の危機(AFP BB)
米投資会社と契約 作品差し押さえ防ぐ(AFP BB)
彼女は勿論、ディランの写真も撮っている。1978年の有名な写真
ちなみに、これも彼女だ
最後にマール・ハガードの言葉
「もし、私の写真を見る事があったらこんな風に思ってほしい.....なんて素晴しいマール・ハガードの写真なんだ! じゃなく、ジム・マーシャルは、なんて凄い写真を撮ったんだ!!と」
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one forty plus(自身のブログ)
マット・ソーラムのコメント
MATT SORUM Comments On JIM MARSHALL's Passing
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