チャーリー・セクストン
1995年12月
MCAがチャーリーとの契約を切った時
地元オースチンでは大きなニュースになっていた
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MCAはチャーリーとの、10年に及ぶ契約を打ち切った。4枚のアルバム、プロモートなどMCAは、この10年で200万ドル(2億4千万円)以上費やした。問題は最新アルバムUnder the Wishing Treeがアメリカ国内での売り上げが30,000枚にも達さず、世界規模での売り上げ、最低375,000枚にはもう全然ほど遠いものだった。チャーリー側は、何とか状況を好転させようと努力したが、チャーリーは現在フリー・エージェントだとマネージャーのティムは言った。「彼らは、僕とセールスの約束をしていない」チャーリーはMCAを批難した。ギターの天才と言われ、わずか16歳でMCAと契約したほどの人物が何故このような苦境にいるのか、それはテキサスのミュージックシーンでの大きなミステリーの一つだ。
問題の一つは、チャーリーをスターにするための様々な取り組み。彼は長い間、ファンがどのように自分を見ているのか知らなかった、最初、ブルースアーティストとして有名になったのに、MCAは、ポップアイドルのようにハリウッドに送り込んだ。それはテキサスのコアなファンを失望させた。23歳でオースティンに戻った時、MCAはアーク・エンジェルズのリーダーとしてブルース、ルーツロックをやらせた。「チャーリーにはこの信じがたいイメージがある。彼とMCAの決定は全て間違ってる」ライヴァルレーベルの幹部は言った。「彼らは自分達のコアなブルースファンを連れて行き、疎外してしまった」。そしてもう一つの問題、それは彼のルックス。映画スターのようにハンサムな彼。だからMCAは最初ハリウッドに出したのだろう。“amazing cheekbones(頬骨)high cheekbone” とニューヨーカー誌などが言うようになり、音楽的な能力を正当に評価されるのは二の次になった。これは本当にやっかいな問題だった。「彼の頬骨の事は言わないでくれ、我々の最大の悪夢だ」ティムは言った。
1968年8月11日、16歳のケイがチャーリーを生んだ時、彼女はまだマイケル・セクストンと結婚していなかった。1970年8月10日にウイルを生んだ時はやっと18歳になっていた。少年らの父親は、端正な頬骨で見た目は派手だった。いたずらっぽい茶色の目に、茶色のロングヘアー、ちゃらちゃらしたペテン師の笑顔を浮かべ、もめ事が大好きな男だった。ケイは小柄で、可愛く柔らかい茶色の髪を肩まで伸ばし、きれいなリキッド・ブラウンのくりくりした目。サンアントニオのキリスト教原理主義の家庭で育った。
一般的な社会的通念から言えば、若い夫婦は二人の息子を全く育てていなかった。チャーリーが4歳、ウイルが2歳の時サンアントニオからオースチンに移ったが、彼らの、のんきな生活スタイルは酷く異様なものだった。ケイとマイクは自分達がヒッピーだとは思っていなかったが、ヒッピースタイルが浸透していた70年代のオースチンは、彼らには魅力的で親切だった。しかし一方で不快な出来事もあった。マイクが大麻で逮捕されハンツビルの刑務所に送られたのだ。
まだ、十代だったケイはオースチンのクラブに出入りするようになっていた。時間が経つにつれ彼女は、ヴォーン兄弟(スティヴィー・ジミー)、ファビュラス・サンダーバーズ、ルー・アン・バートン、W. C. クラーク、ダグ・サーム、リロイ・ブラザーズ、ビザローズ(Bizarros)、エル・モリノ(El Molino)のようなミュージシャンが出演するようなクラブにも行くようになった。チャーリーとウイルの兄弟は、クラブでライヴを聞きながら眠るという生活が続いた。
マイクの不在中、ルイジアナのちんけなケイジャンプレイヤーで麻薬の売人が、家に出入りするようになった。ちょうどチャーリーが小学校へ通い始めた頃だった。マイクが服役中に、その男の援助を受けるように仕向けられたが、ケイは男の虐待を生き延び、結局、男から逃げ出した。その後マイクは刑務所を出たが、家族から疎外されていると感じ、80年代に仲直りするまで家を出た。一方、ケイジャン売人は、ルイジアナ港で死体となって発見された。
ケイは虐待をしない別の男と出会った。その事により、ケイと二人の子供は、少しはましな状況になった。彼の名はスピーディー・スパークス(Speedy Sparks)オースチンのベース奏者だった。二人の息子は彼を自分達のアイドルのように思った。彼は、ケイと別れて彼女が再婚したずっと後になっても、二人に同じように愛情を持って接し、成長の手助けをした。子供のチャーリーを音楽に仕向けたのは、とりわけスパークスだった。
チャーリーは10歳になる前には、既にギターを持ってクラブに来ていた。そしてウイルと母親と共に音楽を聞いた。13歳で初めてEager Beaver Boysというバンドを作り、コンチネンタル・クラブのレギュラーバンドになった。「私たちは3人の子供みたいだった」ケイは言う。「一緒に学んだけど、チャーリーが一番学ぶのが早かった。私よりも」。実際チャーリーはエイト・グレード(8年*12年で卒業)で学校を退学している。あまりにもクラブに通い過ぎた。「私たちが家に帰る頃には、スクールバスは行ってしまっている」ケイは言った。「私たちは、笑いながら夜学に行ってた」と言うだけだった。チャーリーがクラブに来る大人達に人気があったから、誰も学校に行かないことを訊かなかった。「誰もそれを出来なかったんだと思う。彼は最高に歓迎されていた」スピーディー・スパークスが言う。「大学に行く金は家には無かったし、奨学金も無かった。ちくしょう、幼児期すら無かった」チャーリーは言った。
以下は2011年のGuitar Internationalのインタヴューから
チャーリー・セクストン:4歳の時に初めてギターを手にした。その頃はよくギターを台車かなにかのように辺りを引きずり回してた。小さなガットギターだった。いつも持っていたが、まだ小さすぎて指が上手く動かなかった。9歳の頃、母親が持っていた何枚かのレコードを聴いてそれでギターを練習しようと思った。それは、デイヴ・クラーク・ファイヴやスペンサー・デイヴィス・グループだった。それ以前に、父親がディランが大好きだったのでディランを聴いて育った。Blonde On BlondeやHighway 61 Revisitedが僕の童謡みたいなものだ。僕の少ないコレクションで一番聴いたのは、マジカル・ミステリー・ツアーだったけど、これはある意味僕の人生に傷を残した。僕はそれでギターを学ぼうとしたんだよ(笑)。初期のビートルズのようなアコースティックでも歌でもない、バックがオーケストラなんだ。ギターのパートなんか一つも無い。オーヴァーダビングと編集のレコードだ。ジョージ・マーティンがやったんだけど。そんなことは全然知らなくて、ポップミュージックにオーケストラが僕の頭中に焼き付いた。
最初に入ったバンドはグルーヴマスターズ(Groovemasters)というバンドだった。小さなブルースバンドで、いかがわしい、安酒場なんかで演奏していた。リーダーは、ランディー・バンクス(Randy Banks)という、ちょっと渋めの西テキサスのブルースソングライターだった。まだ子供だったので誰もギターのことを教えてくれなかった。見よう見まねでやっていた。ある晩、ランディが来た。僕らはリハーサルをやっていた。凄く遅い時間だった。僕はそこでギターを弾いていた。彼は僕の所に来て言った「フィードバックって何か知ってるか?」僕は「NO」と答えた。彼は凄く乱暴に僕からギターを掴んで、アンプの方を向き、弦をはじいて、アンプの真正面にギターを持って行った。そして…waaaahhhh!!!「これがフィードバックだ」と言ってギターを僕に返しランディは出て行った。僕は12歳で家を出たばっかりだった。彼らは僕に「BBキングのように弾けるか?」と訊いたので「ああ、少しなら」と答えてBBの曲やソロを演奏して見せた。それでランディが「OK、俺たちとプレイ出来る」と言って僕を雇った。
12歳で家を出たのは明確な目的があった。レコードを作ってミュージシャンになるためだった。バンドを作って16歳の時、MCAと契約をした。契約後の最初の仕事は、ロン・ウッドの映画の曲。クリス・ペンのThe Wild Lifeという映画だ。MCAはウッディ(ロン・ウッド)と一緒に僕をニューヨークに送り込んだ。それでウッディと仕事をしたんだけど、凄く気があったんだ。お互い同じレコードのブルースを知ってたんで、ぶっ飛んだんだと思う。凄い年齢差があったのに、僕が古いブルースに詳しかったからだろう。それが凄くうれしかったんだと思う。
その曲をやってる時、キースが現れた。彼が来るかどうかはわからなかったが、その時は来たんだ。それで一緒にその曲をやった。ウッディは「ソロアルバムを作るからこのまま一緒に手伝ってくれないか?」と言った。それで「OK、でもこの仕事が終わったらホテルを追い出されるよ」て言うと「うちに来るか?」と彼は言った。それで追加のニューヨークは彼と一緒にいた。
ある晩スタジオに行くとウッディが「後でボブが来るよ」と言った。僕は分からなかった。彼はボブが誰だかを言わなかったんだ。ただボブとだけ言った。僕は「OK、まぁなんにせよCOOLだな」と言った。それにその時は全てが仕事だった。「OK、次はどの曲をやる? どんな風にしてほしい? ビートは?」本当に真剣だった。子供だったというわけじゃないよ。全ての曲に真剣だったんだ。
まぁとにかく仕事をしていたら、そのボブ…ボブ・ディランが来たんだ! で、ウッディが「ヘイ、ボブ。彼が話してたチャーリーだよ」って紹介して、ボブが僕を見ながら「ヘイ…君のことは聞いてるよ」。
ちょっと混乱した。そういうことが以前によくあったんだ。例えば、ニック・ロウがテキサスに行くだろうから「ヘイ・チャーリー、君のことは聞いてるよ」みたいな…テキサスの大ぼらの類い…
ボブに会えたのは光栄なことだった。結局その夜はみんなで演奏し沢山の曲を録音した。それが何であったか、何処へ行ったのか、そんなことは知らない。当時やった事で覚えてるのは「OK、あなたに会えてとてもうれしいです。さぁ録音しましょう」
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THE ROLLING STONES CHRONICLE 1984 によれば、It's Not Easyの録音は、1984年7月5日となっている。7日にはミックが、ウエンブリーでディランのライヴを見ている。このツアーは、7月8日で終わる。そしてロン・ウッドは7月の半ばに家族でヴァケーションに出ている。戻ってきて7月の後半からディランのエンパイア・バァレスクのセッションに参加している。
これらのことからディランとのセッションは1984年7月10日~15日頃に行われたと推測される(誕生日前なので15歳だった)。残念ながらこのセッションの全ての記録は未だに表にでていない。ロン・ウッドのソロという話だったようだが、そのアルバムがリリースされた様子も無い。
1991年10月25日、オースチンでのディランのライヴにチャーリーはジミー・デル・ギルモア(Jimmie Dale Gilmore)と共にステージに立ちディラン等とEverything Is Brokenを演奏した。(80年代のセッション以外で知られている最も古いディランとの共演)5年後、1996年10月26日、27日。ディランはオースチンで再びチャーリーをステージにあげた。そして1999年、正式にディランからバンド加入への誘いを受ける。MCAとの契約が切れて3、4年が過ぎていた。
「ボブから電話があったときは、もうすぐ子供が生まれるっていう時なのに、それまでの人生で最高の文無しだったんだ」
▼チャーリー・セクストン『明日への轍』 (sme)
※そして1999年6月5日から2002年11月22日まで396回、ディランのバンドでプレイした。その後2009年10月に復帰し2012年11月までバンドに参加、翌年の夏に再度復帰する
その時生まれた息子マーロン・セクストン(Marlon Sexton)は、今ちょうどチャーリーがMCAとサインした時と同じ年頃になっている。
▼Little Boy Lost (Texas Monthly)
▼Family Circle (Austin Chronicle)
Little Boy Lost…迷子の坊や…は、多分ブレイクの詩、"Father, father, where are you going? "
Roll on Johnを初めて聴いた時、"Tiger Tiger"って何を言ってるんやろかこのおっさんは「虎だ!虎だ!お前は虎になるのだ!」てタイガーマスクのことでも言ってるのかと思って調べたらブレイクの詩だったんだけど。まぁそれだけの話(笑)。でもブレイクの迷子の坊やは見つかるからね…The Little Boy Found…神様がお父さんのようになって現れて…
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