Dylan’s first guitar


ギターを始めたのは10歳の時、引っ越した家にギターが残ってたんだ







大学に入学したディランが、ミュージシャンになるために最初にした事、それがアコースティック・ギターを手に入れる事だった。

「最初にしたのは、自分には無用だったエレキ・ギターをマーティンのダブル・オーとトレードすることだった。店員が私のエレキをマーティンと同額で引き取ってくれたので、ケース付きのマーティンを持って店を出ることができた。この後2年ほどこのギターを使うことになる(自伝 p. 292)」


First thing I did was go trade in my electric guitar, which would have been useless for me, for a double-O Martin acoustic. The man at the store traded me even and I left carrying the guitar in its case. I would play this guitar for the next couple of years or so (p. 237).


Martin 00-17, 1949 (1959 - 1961)




1959年、大学生だったディランがディンキータウンで用なしのエレキギターと交換したマーティン(00-17/1949)。 ディランはこのギターでその活動を開始することになる。当時この1949年製00-17が、どれほどの値段がついていたのかはわからないが、1940年代このギターが発売された当時は、新品で25~35ドルで売られていたようだ。同じ頃マーティン D-45が200ドルしてたようなのでそれに比べるとかなり安い。

ディランはこのギターでディンキータウンやセントポールのコーヒーハウスなどで弾き語りをした。ディランは2年ほどこのギターを使い、1961年に友人でディランのマネージャだったケヴィン・クラウン(Kevin Krown)にあげたようだ。クラウンに譲る直前にこのギターで"Minnesota Hotel Tape"を録音している。また、ニューヨークでの最初のメジャーライヴだった"Gerde's Folk City"のギグもこのギターを使った。




1992年、クラウンが亡くなった時、ギターはディランがニューヨークに来た当初、ちょくちょく出演していた"Mac and Eve MacKenzie"の息子、ピーター・マッケンジー(Peter MacKenzie)に渡された。その後ギターはシアトルのEMP MuseumExperience Museum Project)で保管されることになったようだ。





ところで、ディランは何故「ダブル・オー」に目をつけたのだろう?「ダブル・オー」つまり、00(ゼロ・ゼロ)サイズは小さめなボディーを持つモデルだ。それはウディ・ガスリーが好んで使ったモデルだった。 00-17s, 00-18s, 0-17s…など…だからこそディランは、わざわざ「ダブル・オー」と呼び、スタートにふさわしいギターとしてこれを選んだのだろう。

※日本語版の自伝では「ダブル・オー」は省略されていて代わりに「マーティン00-17」ときちんと品番が書かれている。原文はご覧の通り"double-O Martin acoustic"としか書かれていない。

ディランはこれ以前にも、安もんのアコースティックを持っていたようだが…。


安もん(Stella Harmony guitar)を弾くディラン (1958)


一番上のユダヤキャンプの時のギターもハーモニーだ。Harmony H1213 - Archtone


また00-17と交換したエレキギターはこの写真(1958年)に写っているシルヴァートーン(Silvertone Danelectro 1317 or 1319)ではないかと思われている。



Silvertone Danelectro 1317 / U1




Gibson J-50, 1945 (1961-63)



次にメインとなったギターは、ギブソン J50(1945)だ。ファースト・アルバムにディランと共に写っているギターだ。このギターは1963年に無くしたとされているが、一説では1965年、スージー・ロトロのアパートが火事になった時に燃えてしまったらしい(まぁ実際、火事で無くしたギブソンがこのJ50だったかは不明だが、火事でギブソンが燃えたのは事実なようだ)。




※本来の写真の向きに合わせたらこうなるという例。このアルバムも写真を反転してジャケットに使っている




1961年、新品のJ50の価格は145ドル。1ドル360円換算で52,200円。当時日本での大卒初任給が14,817円、映画封切250円、はがき5円の時代だ。ディランが1945年製J50を幾らで手に入れたのかは知らないが…ディランは、J50と詳細不明のマーティンと共にファーストとセカンドアルバムを録音した。












Gibson Nick Lucas Special, 1930s (1963 - 66)






さて、ギターを無くしたから新しくギターを買わないといけない。そして手に入れたのが、"Gibson Nick Lucas Special(1930s)"





1927 Gibson Nick Lucas Special (12-fret)

オリジナルのモデルは1928年から30年代にかけて生産されており、ボディーシェイプやネックのジョイント位置、ボディー材等で様々なヴァリエーションが有ります。登場し始めの頃はロバートジョンソンなどでも有名なL-1のスタイルで、丸っこいボディーエンドに12フレットジョイントでしたが、後にL-00のようなフラットなボディーエンドのボディー形状になり、ネックジョイント位置も12フレット、13フレット、14フレットと変わっていきます。ボディーのバック&サイド材もマホガニーやフレイムメイプル、ローズウッドなどが有り、このモデルのイメージが定まり辛いのですが、ボブデュランが手にしていたのが有名で、あの姿を思い浮かべる方が多いかもしれません。

イケベ楽器


1963年、秋、グリニッチヴィレッジに住んでいた、マーク・シルバー(Marc Silber)はニューヨークを離れるための旅行資金を得ようと、自分が所有していたヴィンテージの楽器を売ることを思いついた。が、驚くべき事に誰一人として金を払って楽器を手に入れようとする者が現れなかった。それで、ニューヨーク・フォーク・センターのイジー・ヤングに愚痴ったら「よくわからんけど、委託販売を頼まれたら値段は幾らだ?って訊くだけだよ」と言った。彼もまた長年にわたり良い楽器を所有していて「誰かギター・ショップでもやってくれったら良いのにと思ってる」とも言った。それでシルバーは突然思いつき、ポケットにあった4ドルで"Fretted Instruments"を始めた。そこに最初に現れた客がディランとジョーン・バイエズだった。



シルアル・ナンバー87898、13フレット・ローズウッドのニック・ルーカス。ブロンドにリフィニッシュされブリッジはギルドタイプ、ピックガードはマーティンタイプに変更されている。ディランが購入する前のオーナーはシルバーの妹ジュリーだった。








このニック・ルーカスは強度的に弱い面を持っていた、にも関わらず、ディランがケースの中やらカバーの中に沢山のハーモニカを入れたおかげで1966年、オーストラリア・ツアーの時とうとうギターを壊してしまう。ギターを修理に出してる間ディランは地元の小さな楽器やで500ドルでギターを借りてライヴを続けた。

シルバーは、ニック・ルーカス以降も多くのギターをディランに売っている。「僕の知ってる本当のディラン、それは"Don’t Look Back"にあった。スターダムにのし上がる間、彼がいかに率直だったか、おどけ者でクリエティヴだったかがわかる。すばらしいアーティストだ。特に彼の弾くピアノが好きだ…(シルバー)」

現在ニック・ルーカスは息子のジェイコブが所有しているようだ、ジェイコブと仕事をしているジョー・ヘンリーがそれを確認した。

ジョー・ヘンリー:ジェイコブがそれを見せた時は、とても信じがたい思いだった。ケースとサイズが合って無かったので、周りにボブのシャツが詰め込まれていた。ネックが酷く反っていたのでそれを調整した鳴らしてみた。 'She Belongs to Me'や'Gates of Eden'や'Tambourine Man'のサウンドが甦った。



Bob Dylan and Martin Guitars (American Songwriter)
Dylan’s Guitars (dylanchords)
BOB DYLAN'S GEAR


デビュー前後のディランは本当に酷い格好をしている。しかしよく見るとギターがギブソンだったりする。プロを目指すならそれは当たり前…の事なのかもしれないが…見た目とのギャップが激しい。












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