Blonde On Blonde


アル・クーパーの手記


MOJOマガジン、7月号の記事から



Like A Rolling Stoneでの私のカミカゼ・オルガン・アタックとその後のアルバムHighway 61 Revisitedのレコーディングはディランの1965年、夏と秋のツアーへの参加に繋がった。

4ヶ月後…1月25日、ニューヨークでのOne Of Us Must Knowのセッション、ポール・グリフィンの演奏にノックアウトされた(それがロックのレコードで演奏された最高のピアノ演奏の一つだと今でも思っている)あと…ナッシュビルでのディランのアルバムの仕事を依頼された。

その時はもうブルース・プロジェクトのキーボーディストになっていて、彼らのファーストアルバムで演奏していた。すぐにアメリカツアーが始まりバンドは車にぎゅーぎゅー詰めに押し込められ色んな大学やクラブで演奏した。1966年、オハイオの大学を最後に私たちの冬のスケジュールが終わった。わたし以外のメンバーは飛行機でニューヨークに帰った。

私はコンサートをプロモートした二人の女子学生のゲストだった。その夜、彼女たちは学校のフィルムフェスティバルに私を連れて行き、その後、彼女たちの寮に一緒に帰った。私はまた睡眠を奪われるのか? が、しかしその時は文句を言わなかった。彼女たちのタスクの終わりは、ナッシュビルでのディランのレコーディング加わるために、私を翌朝の9時までにコロンバスの空港まで送って行く事だった。

私たちはちょっと遅れ、吹雪の空港に着いたのは、離陸の10分前だった。飛行機はちょうどゲートから離れようとしていた。私はゲートの人達に叫んだ。実際、彼らはそれを聞き入れ飛行機を止めてくれたんだ! そしてジープに私を乗せ滑走路を走り飛行機に乗せてくれた。飛行機の中に入ると、ニューヨークの音楽ビジネス関係者を沢山みかけた。ボビー・ヴィントンや彼のプロデューサー、ロバート・モーガンなんかも居た。彼らはみんな私の所行を大笑いしていた。

これが私のBlonde On Blondeの始まりだった。

ナッシュビルに到着するとすぐにロジャー・ミラーのKing Of The Road Motor Innにチェックインした、ロビー・ロバートスンと同室だった。彼とはフォレストヒルズやハリウッド・ボウルでリヴォン・ヘルムやハーヴェイ・ブルックスと一緒に演奏した。私はザ・バンドのことをディランのバックをやる以前のホークスの頃から知っていた。私がロイヤル・ティーンの頃だ。

最初の2日間は、ディランの歌詞を完成させるために、ちょっとましなディランのホテルの部屋で彼のアシストをした。この作業で、曲がアコースティック・ギターで演奏されるのか、ピアノで演奏されるのかがわかった。私はピアノでリピートすることが出来たが、彼は歌詞を書いたので数秒おきにそれは止まった。

これは実際、音楽的に曲を学ぶ手助けになった。このやり方で、私は毎日ボブがスタジオに来る前に、ナッシュビルのミュージシャン達に少しだけ、あらかじめ曲を教える事ができた。さらに、私のアレンジのアイデアも伝える事ができた。コロンビアのスタジオはニューヨーク、ナッシュビル、サンフランシスコそしてロサンゼルスとどこも大体同じシステム、機材が導入されていてインテリアも同じような感じで作られていた。なのでここミュージック・ロウでも私のなじみのニューヨークのスタジオと変わらずセットアップすることが出来た。



Columbia Studio A Nashville, TN



チャーリー・マッコイは事実上バンドのリーダーだった。彼は才能の宝庫、必要とあらば、ベース、アコースティックギター、ハーモニカそしてトランペットを吹いた。他のバンドメンバーも何百ものヒット曲で演奏していた。彼らは完璧なチームとして機能し、並外れた学習能力を有していた。

Most Likely You Go Your Way And I’ll Go Mineの初期のテイク。それぞれのヴァースのイントロでオルガンを弾くことを思いついた。数テイク演ったあとにチャーリーが、そのパートをトランペットとユニゾンでやると良い感じになるんじゃないかと私に言った。彼はこの曲ではベースを弾いていた。

私は、ボブが本当にオーヴァーダブを嫌っているから、そのアイデアはボツになるだろうと彼に言った。チャーリーはベースとトランペットを同時に演奏できる! と言ってきた。私が笑いだすと、彼は左手でベースのフレットボードをタッピングし、右手でトランペットを吹きはじめた。

OK! OK!

私は笑いながら、ボブの所へ許可を求めに行った。ボブはオーヴァーダブも何もしたくないと普通に答えた。でチャーリーの所に戻り、一緒にセクションを演奏した。私はボブが歌っている間は、このハプニングを見ることが出来ないから、それが出来るんじゃないかとチャーリーに言った。私たちはシートをあげてボブの視線をさえぎった。

Rainy Day Womenは、Salvation Army Band救世軍バンド)サウンドになった。誰かがサックスを吹いてる間チャーリーはトランペットだけを吹いた。それは朝の2時頃にレコーディングが始まった。すぐにトラックが選ばれ、サウンドをよくしようと、そのテイクにトロンボーンを加えるために朝の2時30分に現地のトロンボーン奏者に連絡をとった。

チャーリーが戻ってきて友人のウェイン・バトラーが40分後に加わると言ったので、みんなで少しの休憩をとった。キッチリ40分後、髭をきれいに剃り、ネクタイにスーツを着たトロンボーン奏者が現れた。より良いテイクを得るために、彼を加えてさらに30分間演奏した。そして彼はみんなに感謝して夜の中に帰って行った。私はこんな事はニューヨークじゃいつだってこんなにすぐに起こらないと思った。

みんなでTemporary Like Achillesのアレンジを決めている時、ボブは私を呼んで「ピアニストがイントロを演奏してから最初のヴァースのセカンドハーフに戻る」と言った。ピアニストのハーガス”ピッグ”ロビンスは、盲目の中年紳士だった。私はボブにピッグと直接話すことを提案した。ボブは「君がやれば? 僕は彼をピッグ(豚)なんて呼べない」と言った。

写真は全く撮らなかった。プレス関係も許可されていなかった。ある日の早くに、いかがわしい新聞のリポーターが10分ほどコントロールルームに居た。ボブがピアノに座って詩を書くのを見るのには十分な時間だ。彼は放り出されたが12時間後にまたボブを見ようと戻ってくるとボブはまだピアノの前に座っていた。12時間うごいて無いと思ったようだが、特に誰かに言うことは無かった。「おお、ヤツはあそこで何を???」

「コロンビア・レコーズ・アンド・テープス」とアルバート・グロスマンがすぐに答えて、無慈悲に彼を部屋から追い出した。長年にわたって、私たちのボブに関して多くの偽情報が印刷された。66年のナッシュビルでのセッションにおいて、プレスを閉め出した事が、それは何の手助けにはならなかった。

数年後、コロンビアのプレス部門は60年代のセッション・シートへのアクセスを許可した。問題は、シートには有用な詳細が何も無かったという事だった。

例えば、誰かが現在のプロジェクトからミキシング前かマスタリング前の曲を2曲、アセテートからカットしたら、セッションのファイルには曲の名前とカッティングタイムだけが記録された。知識の無い人が見れば、まるで完璧なレコーディング・セッションの痕跡のように見える。その結果、ナッシュビルのセカンド・セット(セッション)と日付け(3月8-10)の神話が生まれた。

セッション・シートが出てきたとき、インタヴューされたことを思い出す。こう尋ねられた。「何故2度目のナッシュビル訪問で、ここにリストされている曲をまた再レコーディングしたのですか?」私は「2度目は無い。それは、2枚組のレコードを約10日かけて録音した」ということだと答えた。

彼は「うーん、2週間後にこれらのタイトルが付けられていた曲を6時間のセッションで録音したと…」と言った。それらがどういったセッションなのか、注釈が無かったのでジャーナリストはさらに録音をした思い込み、最終的には混乱情報がさらに酷くなっていった。

ディランと音楽を創った事を顧みるとき、Highway 61 Revisitedは、明らかにパンクロックを創り出す支柱になっている。
それは、rough and ready(即席の、間に合わせの、ぞんざいな) and Bloomfield tears your head off. (そして、プロデューサーのトム・ウイルスンが解任されたことも本当に理解出来ない。ただし彼とグロスマンの仲が良くなかった事を除いて)

Blonde On Blondeは違っていた。

ここのスタジオ・ミュージシャンより優れたミュージシャン達と演奏したことが無い。Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again、私とジョー・スミスのエンドレス・ヴァース、彼の弾いた小さなリフ。また、Sad Eyed Lady Of The Lowlandsは午前3時の音楽的ムードを表し得る唯一の方法…この二つは私の中で決して古びかない。

ナッシュビルは、私にとってニューヨーク、ジャージー以外での初めての外の仕事だった。自分自身、最初のソロアルバムをレコーディングするとき、ここに戻ってきて同じミュージシャンでやろうとした。他のどんな場所でやろうとは思わなかった。



Al Kooper at the Hammond organ, Columbia Studios New York, 1966. with Paul Simon
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さてさて地味に結構すごい事を言ってる。それはナッシュビルでのセッションの回数だ。通説では…というかもうほとんど当たり前になっているが、レコーディング・セッションは1966年、2月14~17日、3月8~10日の2回ということになっている。これはヘイリンとマイケル・グレイという超ディラン学者の同一の見解となっている。


ところが、アル・クーパーはそうじゃなくナッシュビルのセッションは1回だけで3月の録音は無かったと言っているのだ。ジャーナリスト…例えばイギリス人のマイケル・グレイとかが、2回でしょ?って電話してきたけど、1回だよ、行った本人が行ってるんだから間違いないって、忘れてるんじゃないかって言う人もいた。そいでマイケル・グレイのボブ・ディラン・エンサイクロペディアは買わない方がいい(笑)…と下のヴィデオでも話している。



本人が言ってるので間違いないような気がするが、訂正される気配も微塵も無い。とりあえず論争中というのが現状だ。

まぁ他にも沢山の人が参加してるんだから、訊いたらすぐにわかるような…
















































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