ビリーザンジンガーの寂しい死



ディランの曲「ハッティ・キャロルの寂しい死(The Lonesome Death of Hattie Carroll)」の中に登場しているウィリアム・デブロー・ザンジンガー氏が1月3日に亡くなった。69歳だった。彼の家族は、亡くなったこと以外、細部について何も語らなかった





1963年2月8日ボルティモアのエマーソンホテルで催された社交ダンスパーティーでの出来事。当時24歳のザンジンガーは、燕尾服にトップハット、24セントの木製のおもちゃの杖を持ち既に酔っぱらった状態でダンスホールに現れた。

フレッド・アステアの真似をして杖をグルグル回ししたり、時にはその杖で女性をつついたりしてふざけていた。酒が進むにつれその悪ふざけはエスカレートした。黒人ボーイの尻を突き、黒人ウエートレスに暴言を浴びせ彼女を杖で連打した。

ザンジンガーはさらに酒を飲もうとバーへ向い、ハッティ・キャロルさんに酒をたのんだ。キャロルさんは「少々お待ち下さい」と言った。しかしザンジンガーは待ちきれなかった。「何をやってるんだ、このクソッタレの黒人!!なんでそんなに遅いんだ!!」と怒鳴り杖で激しく撃った。

キャロルさんは呆然としてぐったりと倒れ込んだ。同僚が彼女の話を聞いたが意味の分らない言葉ばかり出てきた。心配になった同僚は救急車を呼んだ。

8数時間後、キャロルさんは重い脳卒中で帰らぬ人となった。51歳、11人の子供がいた。そして、ザンジンガーは、殺人で起訴された。

ザンジンガー家は、メリーランドで630エーカーという広大な土地でタバコ農場を営み、彼の父親は、メリーランドの立法府や国家計画委員会での勤務経験もあるワシントンで有名な不動産業者という、いわゆる町の名士。ザンジンガー自身はタバコ農場で管理者的な仕事をしていた。

裁判でザンジンガーは酔っていたのでキャロルさんはを殴ったことを覚えていないと証言し弁護士はキャロルさんが太っている上に高血圧であったので、ザンジンガーが殴らなくてもいずれ脳卒中に見回られるだろうと主張した。

3人の裁判官はその主張を受入れず、殺意無き殺人として有罪の判決を下し、ホテル従業員に対して125ドルの罰金、キャロルさんに対して600ドルの罰金と6ヶ月禁固刑を言渡した。ただし、タバコ農場の収穫に支障が出るとして禁固刑は数ヶ月先延ばしされた。

一人の黒人女性の死と白人男性の6ヶ月の生活が等しいとする判決に対して、全米の黒人は怒りをあらわにした。

ザンジンガーは、6ヶ月の刑期を終え、再び農場に戻ったがしばらくして引越し不動産業を始めた。その後ナイトクラブや骨董品などにも手を広げた。商工会議所にも所属し1983年にはメリーランドの不動産業者政治活動委員会議長にも選ばれた。その頃には、もはやキャロルさんの事件は忘れ去られていた。

しかし、1991年4月24日。ザンジンガーは再び新聞の一面に登場することになる。彼は複数の貧しい黒人家族に家を貸していた。その税金を収めていないということだった。最も家とといっても水道もトイレも無い、あっても家の外にあるようなボロボロの掘っ建て小屋だった。そんな掘っ建て小屋の家賃の値上げをし払えない人に対し裁判まで起し住人を法廷にまで引き吊だし裁判に勝訴していた。

ワシントン・ポストが、ハッチ・キャロルさんの事件と結び付けて取上げ話題となった。

時代は変った。多くの人々がザンジンガーを糾弾した。

1991年11月、不正や偽装取引に関する50の軽犯罪で有罪となり18ヶ月の刑務所暮しと罰金50,000ドル、2,400時間の社会奉仕そして低価格住宅供給支援グループを援助ように命じられた。

2001年、ザンジンガーは、抵当物件の競売人になっていた。何年もの間ディランの歌について質問に答えてこたなかった。ディランの伝記「 ダウン・ザ・ハイウェイ」の著者ハワード・スーンズがあの歌につて問いかけた。

「やつを訴えて刑務所に入れろ。あの歌は全くのデタラメだ」

ラリー・ジェンキンス(ディランの広報係)は、ザンジンガーの死に対し作曲家からのコメントは得られなかったと言った。

「ハッティ・キャロルの寂しい死(The Lonesome Death of Hattie Carroll)」は、アルバム「時代は変る」(1964年)に収録されている。


Link
The Lonesome Death of Hattie Carroll(Wikipedia USA)

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