またまたボブ・ディラン・クラシックスな話
「イーディはディランを連れてサム・グリーン (Sam Green) のパーティーに来ていた。二人は部屋の隅でくっいていた。ディランはブルージーンズにかかとの高いブーツを履き、スポーツジャケットを着ていた。目の下クマができていて、立っていても背中が曲がっていた。彼は24歳くらいだった。ちょうど子供たちがみんな彼の服装や行動、話し方を真似し始めていた頃だ…私が彼に会ったとき少々派手だった、とうぜん庶民的では無い、つまりそれは彼が着ているサテンの水玉のシャツの事だ。彼は Bringing It All Back Home をリリースしていた…そして Like A Rolling Stone が出る直前だった。素晴らしく新しいやり方でクリエイトするディランが好きだった。過去のやり方を尊重することに専念せず、自分のやり方に変えた。そこが彼を尊敬するところだ。最初に合った日に、私のシルヴァーエルヴィスをあげるくらいだった。あとになってそのエルヴィスが田舎でダーツの的になっているという噂をきいてパラノイアになった。何でそんなことをする? 私は訊ねた。答えはいつも、ボブは、君がイーディを壊したと思ってるんじゃないか、とか Like a Rolling Stone の歌詞にある diplomat on the chrome horse は君の事だと思うよ…みたいなものだった。私はそのことが何を意味するのか正確には知らない…曲の歌詞を深く聞いたわけでも無い。でもみんなの言ってること…つまりそれは…ディランは私を好きではない、そしてイーディのドラッグは私のせいだということだ 」(POPism 1980:1965年、初めてディランに合った日のことを回顧して)
1965年、12月(もしくは1月、もしくは7月)。ボブ・ディランはニューヨークにあるアンディ・ウオホールのファクトリーをいわゆる「スクリーン・テスツ (Screen Tests)」のために訪れた。(ちなみに、Screen Tests は作品名。ディランは Screen Tests のための Screen Test を撮影した…ということか…)
当時、ファクトリーでアシスタントをしていたジェラード・マランガ (Gerard Malanga) は、その時の様子を語っている。
「ディランはカメラの前で座っていただけだ。何も特別な事じゃない。葉巻を吸っていた。バーバラ・ルービンが彼を連れてきた。ボビー・ニューワースというローディーも一緒に来ていた。アンディはボブを映画に出すアイデアを考えていた…ボブはその時かなりきていた。ボブへの求愛のしるしとしてアンディは “Double Elvis Presley” をボブにあげた。
あのときボブはパンキッシュで良かったけれど、くそ生意気だったよ。ボブ達は、あのバカでかいペインティングをエレヴェーターで下まで運んだ。窓からみてみると、彼らはステーションワゴンの屋根に絵を括りつけていた。そしてそのままウッドストックに帰っていった。あるときその絵を、グロスマン(ディランのマネージャー)の家具と交換したと連絡があった。
本当のところ、実際ボブはアンディに対して真剣では無かった。結局ボブはアンディのどのメジャーなフィルムにも登場しなかった。お互いに好きじゃ無かったんじゃないかな。アンディの独特な振る舞いを見て、この先もアンディは横柄なままだろうとボブは気づいたんだろう。真剣じゃない態度をとることで、アンディを遠ざけたかったんじゃないかなと思う」
ディランは「ダブル・エルヴィス」だか「シルヴァー・エルヴィス」だかをギャラの代わりに欲しいと言ったという別の報告もある。ディランに同行していたニューワースとヴィクター・メイムーディス (Victor Maymudes) が、ウオホールの気が変わらないうちに急いで運び出したという。そのほかにも「あなたはクールだ」「いやいや、あなたこそクールだ」みたいなやりとりをしながら、結局のところウオホールが渋々絵をあげた、といった報告もある。
いずれにせよ、車の屋根に縛り付けて運んだウオホールのエルヴィスは、その後ディランのダーツの的になった…というのは有名な噂話だが、その噂でウオホールは被害妄想になってしまったようだ。
しかしその後エルヴィスはもっと酷い目に遭う。ディランはグロスマン家にあったソファーと交換してしまうのだ。ウオホールは日記に書いている。
Oct. 1977:私のシルヴァーエルヴィスを所持していると、ディランのマネージャーだったアルバート・グロスマンが改めて知らせてきた。ディランにあげたのにどういう事だ。グロスマンはどうやって手にいれたんだ?
May 11, 1978:グロスマンがエルヴィスのペイティングを持っていると言ってるけど、どういうことか知ってるかとロビー・ロバートソンに訊ねた。すると彼は、いつだったかグロスマンのソファーと交換したと笑いながら答えた。彼は小さなソファーが必要だったのでグロスマンにエルヴィスをあげた。ドラッグのために必要だったんだ。高価なカウチ。
(The Andy Warhol Diaries 1991)
そのことについてディランはインタヴューで
アンディ・ウオホールのエルヴィスをカウチと交換したけど、バカなことをしたよ。アンディに本当に無礼な事をしたと伝えたいといつも思ってる。もしアンディが別の絵をあげるよと言っても、もう同じ事は二度としない(Spin magazine 1985)
と自分の行動を悔いた。
1985年11月14日、ウオホールは、オノ・ヨーコと共にディランと食事をしたと日記に書いている。その翌年1986年7月にはディランのMSG公演を訪れた。
1987年1月14日、ディランはニューヨークのロバート・ミラー・ギャラリー (Robert Miller Gallery) で開かれた、ウオホールのエキシビション (Photographs) を訪れた。
その約1ヶ月後の2月22日、アンディ・ウオホールはニューヨークの病院で亡くなる。
58歳だった。
果たしてディランはきちんと謝ったのだろうか…
1988年、未亡人になっていた、グロスマンの妻サリーは、エルヴィスをオークションで売却した。売却額は720,000ドル(約8千6万円:当時)だった。
オークションで売られたエルヴィスは、その後どうなったのだろう?
それを追跡した人物がいる。
フレッド・バルスだ。
バルスはまず、人によってまちまちな…つまり、ダブル・エルヴィスなのかシングル・エルヴィスなのかを断定した。(※ウオホール自身はダブル・エルヴィスという言い方をしていなかったのかもしれないが…)もう1度、車に縛り付けられたこの写真を見てみる、拡大するとわかる。
そしてこのダブル・エルヴィスがMoMA (ニューヨーク近代美術館) にあるのを見つける。
サリーはサザビーズを通してプライヴェート・コレクターに売却していた。バルスはMoMAのエルヴィスが、そのプライヴェート・コレクターである、ロングアイランドの不動産開発業者、ジェリー・シュピーゲルだと確認した。
シュピーゲルは2001年、エルヴィスをMoMAに寄贈したのだった。
長い旅を経て再びニューヨークに戻ってきたエルヴィス。
その絵は2007年までMoMA展示されていたが、現在は展示されていないようだ。もちろんその絵には、ダーツの穴の跡も無かった。
2009年4月9日、ヨーロッパ・ツアー中のディランは、午後のほとんどをアムステルダム国立美術館ですごし、その後ローリング・ストーンのインタヴューの続きに応じた。ディランはそこで自身が好きな画家の名前をあげて、とても情熱的に芸術について語った。
「アメリカ人でいうなら、ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコかな、でもこの町(アムステルダム)のアーティスト、レンブラントは、大好きな画家の一人だ。彼のラフで荒削りで見事な絵が好きだ。カラヴァッジョ(ミケランジェロ)はもう一人のお気に入りだ。カラヴァッジョの絵やベルニーニの彫刻を見るチャンスがあるなら100マイル離れていてもいとわないで見に行く。あー、イギリスの画家ターナーも大好きだ。アートはアーティリリィーだ。(※Art is artillery・・・アートは武器という意味か?)今あげたアーティスト、特にカラヴァッジョとレンブラントは最も効果的なやり方でそれを使っている。実のところ、彼らの作品を見た後にピカソにつてどう言えばいいかわからない。理由は色々だ。彼は反逆 (renegade) の画家だった。彼は自分が画きたいものだけを画いた。彼を超えるライヴァルのような存在も無かった。他の画家のレヴェルまで追われたことも無かったと思う。他の作品の感想を言うようにピカソの作品の感想が言えないんだ。プロパガンダ的な画家だったが、ジャック=ルイ・ダヴィッドも大好だ。「アルプスを越えるナポレオン (Napoleon at the Saint-Bernard Pass) 」や「マラーの死 (The Death of Marat) 」など象徴的な絵 (emblematic painting) を画いたアーティストだ」
そして、インタヴューワーのダグラス・ブリンキー教授の口からアンディ・ウオホールの名前が出たとき、ディランは、何を腐った戯言を言ってるのかこいつ的に教授を睨みつけて、こう言った。
「彼は文化人だ。アーティストでは無い」
そして全世界の音楽ファンは思った。
ディランはやっぱりウオホールが嫌いなのだ。
▼The Gerard Malanga Interview
▼The time Bob Dylan traded an Andy Warhol painting for a couch (examiner)
▼Double Elvis to Woodstock - The Story (Fred Bals)
▼Bob Dylan's Late-Era, Old-Style American Individualism (Rolling Stone)
▼BOB HATES ANDY
PS
ファクトリーにディランを連れてきた映像作家のバーバラ・ルービン (Barbara Rubin) 。彼女は Bringing It All Back Home の裏ジャケットに写っている人だ。
上の写真はすべて1964年9月、プリンストンのマッカーター・シアター (McCarter Theater) での写真。バーバラはディランの頭をもてあそんでいるわけでは無く、ライブ終了後のディランにマッサージをしてあげている。彼女は人と人を繋ぐ天才と言われていたそうだ。ディラン、ウオホール、ギンズバーグ、ドノヴァン、ヴェルベト・アンダーグラウンド、ジョナス・メカス… ファクトリー、ビートニクス、フルクサス…
ジョナス・メカスのウエブに、"To Barbara Rubin With Love" と題された映像と共に「ヴェルヴェト・アンダーグラウンドを発見し、オートバイ事故後のディランの心を救った」と紹介されている。
To Barbara Rubin With Love
フレッド・バルスと言えば、彼のキック・スターターのプロジェクトは残念ながら成功しなかったが、
→ フレッド・バルスの挑戦
現在、キック・スターターでディラン関連の2つのプロジェクトが話題になっている。
一つは、ヴィクター・メイミューダス (Victor Maymudes) の伝記
▼The Victor Maymudes Biography Friend, Confidant to Bob Dylan
もともと本人が途中まで書いていたものだが、その半ば亡くなってしまったので本の出版も頓挫した。今回は息子がその後を引き継いで伝記を完成させようというプロジェクトだ。他の誰よりもディランのそばに長くいた人物だからその内容は期待出来るかも…
もう一つはドゥルースにディランのブロンズ像を建てようというもの
▼Dylan by Duluth
予定では高さ4mあるそうだ。
それにしても Like A Rolling Stone は、いちいちイーディに当てはまるなとか、イーディがおかしくなったのは曲が出来たあとだろうとか、いやいやそれ以前からとか、曲のタイトル母親の名前(Beatrice "Beatty" Stone Zimmerman)からきてるとか…たいへんすぎ…
2009年のRS誌のインタヴュー。サルコジに会った時、「何処に住んでる? (Where do you live?) 」と聞かれて「今ここに…というのは冗談で、Lone Star State (テキサス) からきました」答えて、別れ際にサルコジにテキサススタイルのベルトとバックルをプレゼントしたってねぇ、うれしそうにねぇ、ゆーてはるけどねぇ…。
まぁ本音と建前ちゅうもんがあるからねぇ(笑)。どっかの市長みたいに手前の本音と建前に気づいても、その奥の方にある本音と建前に気づかなかったら…
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