平凡パンチ


インタヴューと追っかけ記事




1978年2月13日号











当初、プレスカンファレンスは単一のセッションとして行われる予定だったが、日本から大勢のジャーナリストが来たために個別のミーティング形式になった。個別にインタヴューを受けたのは日本とオーストラリアだったようだ(オーストラリアの内容は不明)。

よくネットで「ランダウン・スタジオって何処にあるんだ? 聞いたことが無いが本当にあるのか?」みたいなのを目にする。例えばこんな感じだ。

Bob Dylan Street Legal cover photo - location, hidden meaning?


まぁ、ランダウン・スタジオという名前のスタジオは無い。正確に言えば、ディラン達が(勝手に)その場所をランダウンと呼んでいたのだ。以前紹介したディック・カーティスの手記にこう書いてある「They called the rehearsal place in Santa Monica, “Rundown Studios.”」。

ではその場所は一体何なのか? それはこのインタヴュー記事のリードに書いてある。
「ロサンゼルス・サンタモニカのメーンストリート2219にあるミュージック・トゥアリング・カンパニーで50分…」ミュージック・トゥアリング・カンパニーとは「コンサーツ・ウエスト(Concerts West)」のことだろう…これもディック・カーティスの手記から推察できる。

ハワード・スーンズによればその場所は「古い工場(old factory)」だと言う。その場所に機材があったのか、ディラン達が持ち込んだのか、或いはその両方なのかは知らないが、当時のディランはここをベースに音楽を創っていた。

2階建ての建物の1階「プレイバック」ルームでプレスカンファレンスは開かれた。この時点でライヴアルバムの計画は既に公になっていた。レコーディングは、極東ツアー終了後、一旦アメリカに戻ったロサンゼルス辺りで予定されていた。

因みに、床に這いつくばって写真を撮っていたのは、このツアーにも同行した写真家ジョエル・バーンスタインだろう。




1978年3月13日号









78年のツアーは、きっちりとプロダクションされたツアーというものをディランが初めて意識したツアーだと思う。そのために最高のプロフェッショナルを集めた。それは学ぶためのものであり、言い換えれば盗むためのものだ。たった一人で乗り込む様は、グロスマンと別れ一人で動きだし、クライヴ・デイヴィスと仕事を始めた頃を思い出させる。

インストのオープニングで始まり、チェサーで締めくくるショーの構成。また、きちんと衣装を着て着飾った様子はいわゆる「歌謡ショー」の王道だ。ショーの内容も日に日に成熟させていく…今日のディランより明日のディラン、明後日のディラン、いや最新のディランが一番最高…そんなライヴ…ランダウンのリハーサル、そして日本、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカ…それらを通して聞くと良くわかる。そのアレンジが基本的に殆ど変化していないことを。にもかかわらず全く別に聞こえるのだ。バンドの演奏も毎回違った。ギターソロも決して同じフレーズを弾かない。思えば昔はみなそうだったように思う。それがライヴだと…

因みに、ディランの関連会社のなかには「ミュージック・トゥアリング・カンパニー」もある。イースト・ウエストという会社だ。社長はジェフ・ローゼン。今もディランのツアーに機材などを出している。そういうことは抜け目がないんだよ(笑)。

今もコンサートは、オープニングはインストで始まり、きちんと衣装を着てライヴをやってる。





※1978年ツアー最終日


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