Blood On The Tracks New York Sessions 初日
NEW YORK
DAY: 1
SEPTEMBER 16, 1974
ニューヨーク 1974年9月16日
セッションは7997アヴェニューにあるA&Rレコーディング・スタジオで昼過ぎから始まった。最初はディランとエンジニアのフィル・ラモーン、そして彼のアシスタント、グレン・バーガーの3人だけだった。
コロンビアは1968年にラモーンと会社にスタジオを売却した。A&RのRはラモーンのRだ。バーガーは、ラモーンのパーソナル・アシスタントとしてA&Rで働いていた。当時のフィルは既に世界でも屈指のエンジニアとして有名な存在でその後、ビリー・ジョエルのストレンジャーでプロデューサーとしても超一流となる。
9月、フィルにエキサイティングなニュースが届いた。ディランのレコーディングだった。A&RのスタジオA-1はニューヨーク52番街7997アヴェニューの7階にあった。A-1は素晴らしいスタジオで、90フィート(27m) ×60 フィート (18m)、高さ30フィート (9m) のほどよい大きさがあった。
7階に上がるには古い貨物用のエレヴェーターを使用した。ビリー・ジョエルの
52nd streetのジャケットにそのエレヴェーターが写っている。
エレヴェーターは手動でボブ・ブラロックと言う人物が操作していた。彼はポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、ジェームズ・ブラウン、レイ・チャールズ、マイケル・ジャクソンなど多くの有名人を運んだ。程なくディランも彼に運ばれてスタジオに入ってくるだろう。
1974年9月16日、それはユダヤ歴の元旦、
ローシュ・ハッシャーナーの日だった。
ディランは肩からギターをかけ首には自身のシグネチャーモデルのハーモニカをホルダーにつけていた。黒いヴェストに白いシャツ、33歳のディランがそこにいた。
バーガーはディランの回りに古いノイマン(マイク)をセッティングした。
Studio A-1 at A&R Studios
バーガー:1974年9月、当時わたしは19歳でした。フィル・ラモーンのアシスタントをしていた頃は、ちょうどマルチトラック・レコーディングがレコード作りの主流な方法になっていました。私の最初のセッションはポール・サイモンでした。彼のレコードは1年かかりました。ディランはプロダクションに関して全く気にかけている様子がありませんでした。ミュージシャンが誰だとかも全く…プロデューサーもいませんでした。フィルは一人のエンジニアにすぎません。唖然としました。彼はフィルにバンドを集めるように頼みました。フィルは偶然エリック・ワイズバーグに出会いました。彼はバンドを連れていました。彼らはディランの新しいアルバムの仕事に完全に興奮気味でした。
トーマス・マクフォール(キーボード): 私はディランのことを、今も昔もとても尊敬しています。ディランとプレーしたことは重大事でした。
バーガー:ディランの初期の作品を作ったこのスタジオ、そしてコロンビアに帰ってきたことに特別な感じがありました。コントロールルームにジョン・ハモンドがいました。ぞくぞくします。しかしディランは彼を保護してくれるコロンビアのエレン・バーンスタイン以外、ほとんど話をしませんでした。私たちは彼のプライヴァシーを守るよう注意されました。フィルは誰も彼と話さないようにしました。不完全な記憶なので変に聞こえるかもしれませんが…バンドが来るまでに彼がソロを弾いてるのを見たことがありません。それに気づいた時は本当にショックでした。もしディランがフォークスタイルで録音するつもりなら、バンドが来た時点で「上手くいくとは思えないので(一緒に)やりたくない」ときちんと説明すると思います。きちんと計算してやってるとは思えませんでした。
Phil Ramone 1980's
マクフォール:私がA&Rに到着したときディランはすでにスタジオにいました。彼は最初は誠意がありました。彼は自分とツアーしたいかと私たちに尋ね、それは刑務所だけだと言いました。私たちが録音を始める前、彼は紙コップでグレインアルコールをちびちびやっていました。しかし彼がそれで酔っ払っていたかは全く思い出せません。
バーガー:ドラムスのリチャード・クルックスはヴォーカル・ブースにいました。ディランはスタジオに来てミュージシャン達と演奏を始めました。もし作家にアレンジャーがついていなければ、ミュージシャンが2、3時間かけて曲を理解し作家と一緒にアレンジをします。今回、そのよう事は全く起こりませんでした。ディランは誰にも何も言わずただ演奏を始めました。私たちは大急ぎでついていきました。
マクフォール:彼が曲について、何かを言った記憶がありません。たまに曲を始める前に「テープをまわして」と言うくらい。或いは「それと…ブリッジ…他のブリッジと同じような感じ、わかると思う」みたいな事を言いました。
バーガー:フィルのアプローチはテクノロジーをできる限り透明化、意識させない事にあるのでディランは彼がスタジオにいることすら気づいていませんでいた。
マクフォール:フィル・ラモーンからは何のガイダンスもなく、ディランのアプローチはレコーディングというよりコンサートのパフォーマンスのそれに近いものでした。彼は歌を「パフォーマンス」してそれが気に入らなければ「ぼくらは、今のを気に入らないから消してくれ」と言いました。ディランはすごく「ぼくら(we)」を使いました。
バーガー:ディランが演奏を始めるとボタンがギターに当たることに皆が気づき始めました。フィルはその事をトークバックで言うことをためらっていました。彼のやることに誰も抵抗する勇気がありませんでした。
Glenn Berger 1974
マクフォール:大きな問題はキュー(ヘッドフォンモニター)と(楽器の)隔離でした。キューは全てディランで他の楽器がありませんでした。私のハモンドB3オルガンは、スタジオの後方にあり自分でその音を聞くことが出来ませんでした。ディラン以外の他のプレイヤーの音も同様でした。セッティングは本当に変でした。お互いの音が聞こえないのにどうやってバンドに貢献すれば良いのでしょう? 最初にフィルに抗議しましたが彼は全く何も変えませんでした。彼はディランを出来る限りテープに収めることに関心があったのだと後でわかりました。ディランの演奏に比べれば我々が何を演奏したかは、さほど重要な事では無かったのです。彼は音漏れを避けるためにディランのヴォーカルとギターのマイクをできる限り私たちから遠ざけました。
バーガー:彼の"
Idiot Wind"。それは、怒りで痛ましい歌、そして信じられないほど激しく傷つきやすいリアルな曲です。彼はコントロールルームに戻ってきて言いました「偽りの無いものだったか?」。そんな面白い事を言うということは、あのような激しい感情を作り出すのに、(作品から)何らかの距離を置いているのだと思いました。
マクフォール:私は“
Idiot Wind” の歌詞を覚えています。 それは『名声(
fame)』についてです。そして誰にも真実を告げられず、どれほど名声とは孤立しているのかということ。私はなんて皮肉なんだって思いました。それはまさにこのセッションで起こっていることであり、誰も自分の意見をボブに言えませんでしたから。
バーガー:バンドは部品だと彼らは気づきます。そして誰かが間違うとディランは言って演奏を止めます。2、3テイクやって誰にも何も言わず別の曲を始めます。そして同じ人物がまたミスを犯し脱落します。スタジオには興奮とショックと失望からなるエネルギーがありました。彼はバンドに何かをするチャンスを与えず事実上バンドを解雇しました。唯一 ベースプレイヤーのトニー・ブラウンを除いて。
Thomas McFaul 1980's
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やはり誰もがボタンの音を気にしながらそれを言えなかったようだ。以下の音源は
The Bootleg Series, Vols. 1-3: Rare and Unreleased, 1961-1991に収録されている物と同じものであり、それは
Blood On The Tracksのテストプレスに収録された音源だ。ディランはこの状態でリリースしようとしたのだ。ディランにとってボタンの音など取るに足らない事だったのだろう。大事なことはもっと他にあると言いたげにも見える。
それにしても
Idiot Wind”を歌う本人がその歌そのもの…これ以上の皮肉は無い。さすがにフィル・ラモーンがいることは知ってると思うけどね。
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