2015年7月26日

1978年初来日

2015年7月26日


ディック・カーティスの手記




1978年、ディランはジェリー・ワイントラーブと契約し彼の事務所にマネージメントを委ねた。その時ディランの担当になったのがディック・カーティス(Dick Curtis)だった。そのカーティスがディランとの事を書いている。今回は1978年の初来日の事。
Dick Curtis: Dylan [I]
Dick Curtis: Dylan [II]

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ボブ・ディランと一緒に仕事に行くまでは、彼が天才だと痛感することは無かったと思う。1978年、100回を超えるコンサートのための何週間にも渡るリハーサルの間、私は椅子に座りボブとバンドを見つめていた。

私がボブに紹介された時、彼はとてもフレンドリーだった。ジェリー・ワイントラーブ(Jerry Weintraub)は、ディランが、私がシナトラのロード・マネージャーだったことに感激していたと言っていた。それはジェリーにとって重要な事だった。私のディランへのアサインメント、つまり担当は、ロード・マネージャーとしてではなくむしろパーソナル・マネージャー的な役割のためだった。結局のところロード・マネージャーのためにマイク・クロウリー(Mike Crowley)を雇った。



Dick Curtis, Dylan, Mike Crowley

毎日毎日、サンタモニカにあるディランのリハーサルスタジオに行き、椅子に座り、ほんの5、6メートル先にいるバンドを見ながらな熱心にその言葉を聞いていた。それがディランへの理解の始まりだった。そして招集されたこの信じられないバンドの個性を深く理解し始めた。

彼はニール・ダイアモンドの八百屋舞台(舞台が傾斜していて斜めになっている)を使っていた。ニールもワイントラーブのクライアントの一人だった。ダイアモンドのプロダクション・マネージャー、パトリック・スタンスフィールド (Patrick Stansfield)も連れて来られた。スタンスフィールドはニール・ダイアモンドのウェンブリースタジアムの公演を含む大規模なステージの演出の責任者だった。彼はヨーロッパでのツアーの秘密を知っていた。また彼は、ビル・グレアム・プレゼンツのプロダクション・マネージャーでもあった。70年代のストーンズのUSツアーをプロモートした。ロックンロールショーをやるのなら彼はその知識の権化だ。一方で彼について知っておくべきことがある。彼はコカ・コーラを浴びるほど飲む。そしてコケインと大麻。1日にこれだけのコケインと大麻をやる人に会った事がない。それを一気にノンストップでやる。驚くべきことだ。





さっきも言ったが、ステージは八百屋だ。それは後ろが高くなっていて、前方に向かってスロープになっているという事を意味する。彼の背後には8人編成のビッグバンドと3人のバックコーラスがいる最新のボブ・ディランのステージだ。当時は、それが彼のアイデアなのかワイントラーブなのかは知らなかった。思いあたる事は沢山あるが、その答えは誰も知らなかった。後になって、ディランがハリウッド近辺をドライヴしていて沢山のニール・ダイアモンドの看板を見て動揺したという話を聞いた。「何故だ?」彼はコロンビア・レコードでダイアモンドよりはるかにアルバムを出していた。(にもかかわらず)ディランの看板は無かったんだ。ホントの事は知らない、聞いた話だ。その1年前、ダイアモンドのLAグリーク・シアターの公演は、街を唸らせる程の大成功の週だった。コロンビアはそのマジカル・ウイークにレコーディングされた“Love at the Greek”を1977年にリリースした。アルバムは、ロビー・ロバートスンのプロデュースだった。ボブはラス・ヴェガスに旅行しニール・ダイアモンドの公演を見て、そのショーマンシップに感動した。ニールと観衆の繋がり。ボブはラス・ヴェガスでのショーを望んでいなかったが、彼はヴェガスのパフォーマーのようにお金を得るのが好きだ。それには、少しめかし込むべきだと感じていた。



1978年1月、ランダウンでの記者会見



ディランが最初にした事が、ニール・ダイアモンドと同じパーソナル・マネージャーを雇うこと、ジェリー・ワイントラーブ。他のピースが上手くはまったのはその後だった。ニールのプロダクション・マネージャー、スタンスフィールド、サウンドはスタン・ミラー(Stan Miller)、モニター・ミキサーはティム・チャールズ(Tim Charles)その他大勢の人たちがチームに加わった。ミラーの会社は、ワイントラーブの別のクライアントであるジョン・デンヴァーも手がけるようになった。

機会があるなら “Love at the Greek”と“Bob Dylan at Budokan” のステージ人員を比べるといい。多くの同じ名前を見つけるだろう。当時は、この新しいアプローチがどのくらい議論の的になるなんて誰も予想していなかった。その間に私は、張本人たちを知るようになる。





リハーサル・スタジオの担当は、以前ビル・グレアムに雇われていたアヴァ・マグナ(Ava Magna)という女性でスタンスフィールドの元でニール・ダイアモンドの仕事をしていた。彼らはサンタモニカのリハーサルの場所を『ランダウン・スタジオ(Rundown Studios)』と呼んでいた。アヴァはスタジオのボスだった。私はアヴァと仲良くやっていた。彼女のやり方に立ち入らなかったし、彼女も私に立ち入らなかった。ボブのパーソナル・アシスタントはナイスな人物だった。とっ散らかった男で、ゲーリー・シャフナー(Gary Shafner)といった。ゲーリーはディランのロード・マネージャーと呼ばれているが、本当はそうではない。本当のロード・マネージャー、今迄私が仕事をした中でも最高の男、マイク・クローリーだ、彼は数週間後に加わる。マーティ・フェルドマン(Marty Feldman )はディランの会計士、コメディアンのマーティ・フェルドマンと混同しないでくれ。このマーティ・フェルドマン、仕事一筋の糞真面目な男だ。ポール・ワッセルマン(Paul Wasserman)は広報の分野では本物の大物、ディランの広報を扱う。最後は、その当時、同棲していた恋人、黒人女優のマリー・アリス・アレッツ(Mary Alice Artes)。彼女はディランの宗教観に影響を与え、キリスト教徒になる手伝いをした。ディランのドゥルースからの友人ルー・ケンプ、彼もいつもいた。私もケンプが大好きだった。彼はディランとの友情をひけらかしたりすることは絶対しなかった。






このツアーのために集まっているミュージシャンの多くがロブ・ストーナーのような1975年の「ローリング・サンダー・レヴュー」からの難民だった。ストーナーは、この新しいバンドまとめる最も重要な一人でディランに雇われた。事実上の指揮者。そのローリング・サンダーからの繋がりでストーナーが選んだのが、スティーヴン・ソール(Steven Soles)のようなミュージシャン。ソールは優れたソングライターで敬虔なキリスト教徒。1年後ボブに改宗を言われ、とても喜びそれをサポートした。デイヴィッド・マンスフィールド(David Mansfield)はディランの一番新しいメンバーだった。彼は天使のようにヴァイオリンを弾き、とても若く見えた。デイヴィッドは非常に有能だった。キーボードはサンタナと仕事をしていたアラン・パスクア(Alan Pasqua)だ。パーカッションは、ボビー・ホール(Bobbye Hall)。彼女は若すぎて飲み物が注文できない頃からデトロイトのジャズ酒場で演奏している。テナー、ソプラノ・サックスはスティーヴ・ダグラス(Steve Douglas)。もう彼のレコードのクレジットは多すぎる。ほとんどのフィル・スペクターのセッションなど。




ディランの新しいバンドをまとめる新しい才能のアイデアを理解するだろう。ドラムスのイアン・ウォーレス(Ian Wallace)。ドン・ヘンリーは自身のソロツアーのために彼を雇った。リード・ギターはビリー・クロス(Billy Cross)。出会ったミュージシャンの中でも最高の一人。彼との仕事はかつてないほどに楽しかった。彼らを、ボブ・ディランの言葉を引用して言うと…「多くの血液がこのバンドに注ぎ込まれた。彼らは僕の歌を理解している。彼らが僕を理解してるかどうかは、重要なことではない」




ディランのリハーサルは、最初の東京のコンサートへの出発時まで続いた。私は1度も極東へは行ったことが無かった。マネージャーとしても全くそこで仕事の経験が無かった。ツアーはキャストとクルー全てで60人ほどいた。出発前にジェリー・ワイントラーブが私に服を買ってやると言い張った。ロック・プロモーターとしてジーンズばかり履いていたが、外見で判断されるような国でマネージャーらしく振る舞わなければならない。私は自分のスーツ姿を思い浮かべた。スラックスとスポーツ・コート。おもしろおかしい。シナトラと仕事をした全ての年月、そのほとんどがジーンズだった。今、ボブ・ディランと仕事をしてドレスアップしている。不思議だ。まぁとにかく酒とパスポートを手に入れ、東京に向けてのパンナムでの13時間の旅のために、皆はLA空港に集合した。13時間のエコノミークラス。コンサーツ・ウエストと仕事をする際の取り決めがあった。私は、頻繁に航空機を使うのでファーストクラスを主張した。彼らは私のプランに協力した。しかし、今、それは別なものになっている。一人は皆のために皆は一人のために。ファーストクラスはもう無い。リムジンも諦めろ。ボブ、バンドそして私は貸切バスで空港からホテルに移動するだろう。



羽田に着いた直後

PRマンのポール・ワッセルマンは、東京に着いたら何が起こるかわからないと私に警告した。そんな大げさにならなくてもと、心の中で思った。なんと大間違いなことか。そこはマッドハウスだった。報道関係者が滑走路に立ち入ることが容認されているのに驚かされた。ボブが本当に準備出来ていていたかどうか信じられなかった。リポーター全員が、ボブ・ディランのクローズアップを撮ろうと小競り合いになっていた。狂ったパパラッチとの戦いを通り過ぎ、羽田空港と呼ばれる東京国際空港の向かいにある大きなホテルの宴会場に案内された。










リポーターが真っ先にディランから、生きてる意味を剥ぎとったのはその場所だった。我々が13時間のフライトとその寸前まで旅の準備をしていたことを忘れないでほしい。リポーターの最初の質問「次の時代は何だと信じますか?」ボブは皮肉のつもりで言ったが、いたって信用されるように「禅」と答えた。皆はそれを書き留めた。そこから悪くなる一方だった。その日の唯一の良い出来事は、二人の紳士に出会った事だった。Tats Nagashima(永島達司氏)とSeijiro Udo(有働誠次郎氏)この二人は日本でのロックンロール・プロモーション、その殆どに携わっている。彼らは、トッツとウドーと呼ばれていた。
※タツではなくトッツのようだ



永島達司氏 東芝音工の石坂範一郎氏とブライアン・エプスタイン


有働誠次郎氏(2008年)

ディランは2月20日から東京の日本武道館ホールで3日間パフォーマンスし、その後大阪で3日間公演後に東京へ戻りさらに武道館でコンサートをすることになっていた。その日は2月17日だった。私は24時間の休息が必要だった。私の中ではホテルのベットが最重要だったが、直ぐにホテル・ニューオータニに向かうことが出来なかった。


東京の日本武道館ホールは、主に相撲のために建てられた物だった。バックステージにはかなりの量の大理石で出来ていた。それはとても冷たい感じがした。食事は完全に日本式だった。マグロや軽く焼いたサーモン以外、魚に限ったわけではないが日本食は苦労した。丁重なホストでプロモーターのトッツとウドーは、ボブと私、それと幾人かの人をショーが終わるたびに神戸ステーキに連れて行った。さらに彼らは『浴場』にも連れて行った。私は彼らの招待を丁重に受けて、芸者がオイルマッサージをしてくれる浴場Bに招待された。ボブは浴場Aに招待された、彼はさらなるオイルマッサージを受けたと思う。 “At Budokan”のライナーノーツのボブの言葉「考えれば考えるほど、日本に置き去りにされたもの ー 私の魂、音楽、芸者ハウスの可愛い娘 ー を認識させられる。彼女は私を覚えているだろうか?」


The more I think about it, the more I realized …ゴッホの言葉をもじってる?
Kyoto at the Zen Rock Garden … 京都の龍安寺 … 菅野さんが書いてくれている
後、鴨川にも行ってる。囲碁に興味を示し囲碁を買ってる。新宿で洋服を買い、フルーツパーラーでオレンジ・ジュースを飲んでるのを追跡していた記者が目撃している。

武道館の最初の3回のセットは上手くいったが、観衆が本当にショーを楽しんだかどうかはわからなかった。オーディエンスはとても礼儀正しく鑑賞していた。彼らは恐ろしく控えめに感じた。これが日本人の普通の反応だとプロモーターが言ったので、私達は安心した。私達はその言葉を鵜呑みにしていた。次の休日に大急ぎで大阪に移動した。ボブは松下電器体育館と呼ばれている、パナソニック体育館で3回のショーを行い、その後東京に戻り武道館ホールでさらに5回のショーを行う。大阪に向かう途中、寺を見に京都に立ち寄った。寺の素晴らしさに私は畏敬の念に打たれた。







東京での最初の数日で私は、パトリック・スタンスフィールドがどいう人物かが分かってきた。彼はまさしくステージ・プロダクションの天才だが文字通りのめちゃくちゃだった。ニューオータニの彼の部屋に行くとベッドの上で大の字なっていた。辺りには、何10固ものコークの缶がバラ撒かれていた。その時は、ナイフで煙が切れるくらいに大麻をくゆらせ、時折コケインを鼻から吸っていた。絶えず人が行き来していて、パトリックが法廷を開いているようにステージ・マネージャー、照明監督や音響が次々と話をしに来た。時には全てが同時に行われた。大半の人はパトリックのニール・ダイアモンドのクルーで彼のやり方に満足していた。ステージ・プロダクションに関してパトリックの右の出る者はいなかった。

2日ほど街に出なかったがその時、日本の有名なものの一つ『地震』を体験した。人々は、ホテルのロビーに押し寄せ、皆が同じように怖がってるのを目撃した。地面が前後に動いてる時、窓の外を見て心配したが、この状況で何ができる? ビルが曲がってるように感じた。私は残りのグループと最後まで耐えた。地震の後、それは数分続いたように感じたが、実際は、はるかに短い時間だっただろう。全ては静まった。TVでの全ての日本語のニュースではいかなる被害の報告もされていなかった。ディランはひるまなかった。ベッドに座りギターを弾き続けていた。


パーティーの招待状


武道館での最後の公演の後、CBS ソニーレコーズはボブとバンドのためにマキシム・ド・パリ…もちろん東京の…でパーティを開いた。そこで私は今まで出会った事が無いほどの上品な人物と会った。パーティーの主人、Mr. Norio Ohga(大賀典雄氏)、1989年にソニーの最高責任者になる人だが、当時はそうじゃない。Akio Morita(盛田昭夫氏)に紹介された。日本滞在中に沢山のプレゼントを貰った。最新のヴィデオカセットレコーダー、小さなソニーの7バンドのラジオは今でも使っている。


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まぁ実際それを風呂と呼ぶので仕方がないが(笑)。八百屋舞台というのは(まぁ八百屋さんもほとんど見なくなったが)、文字通り八百屋さんの店先のように舞台が斜めになってる事を言う。英語では、raked stage。こんな感じだ。




ディランのステージに傾斜が付いてるのは知らなかったが。





斜めってるか? まぁそう見えなくもないが。ちなみにこの八百屋、めちゃくちゃ疲れる。1時間もこの上で何かやってたら次の日はエライことになる(笑)。


日本のPA業界のパイオニア、ヒビノ音響の社史に78年のディランのコンサート事が書かれている。転載させて頂く。

ヒビノオリジナル「HH3000」「BINCO」スピーカーシステム完成

1978年初頭、ボブ・ディランの音響全般を担当しているアメリカのStanal Sound社のスタン・ミラー社長から「2月の日本武道館では、ヒビノはどういうスピーカーを用意してくれるのか」という問い合わせが入った。宮本がHH3000のシステムを提示すると、思いがけない答えが返ってきた。
「ボブ・ディランのコンサートは、ロックコンサートではない。あくまでボブのボーカルがメインだから、ボーカルをきちんと聴かせるシステムでなければ駄目だ。間に合わなければ、ショーはキャンセルする」

ヒビノが要求に応えられなければ、“フォークの神様”のコンサートそのものが中止になるかもしれない。強烈なプレッシャーの中で、宮本と橋本は急遽対応策を練ることとなった。ミラー社長の言い分は、HH3000のシステムはボーカルの帯域がラジアルホーンから出てくるのが問題だというものだった。「ボブのボーカルはあくまでコーンスピーカーから直接出すのがポリシーだ」と。

宮本と橋本は、ボーカルの帯域をコーンでカバーするために、どのスピーカーをどう組み合わせるのが良いか、夜を徹して白金の倉庫で研究に当たった。1977年12月に来日公演を行ったフリートウッド・マックが使用していたClair社の「S4」など具体的な例を参考にしながら、試行錯誤を重ねた。

二人はHH3000の15インチ2発に対して、最初は12インチ4発で試してみることにした。直前に来日していたギタリスト、ロリー・ギャラガーの公演の音をカセットテープに録音し、インストゥルメンタル曲の「Edged In Blue」のイントロ部分(ドラムスがフィルインする箇所)を繰り返し聴いた。12インチは実にドラムらしい音を出したが、宮本の耳にはややぼやけた音に聴こえた。次に10インチを組み合わせて試すと、音がグッと締まった。

「これでいける」と発注をかけたところ、できあがってきた品は、バランスを崩して倒れてしまうという代物になっていた。二人が音響特性を最優先で考えたため、頭でっかちの構造になっていたという初歩的なミスだった。その後、設計の修正を加えて完成したのは、結果としてあの「マーティン・ビン」とやや似たシステムになった。そこで、ネーミングは“ビンの子ども”だから「ビンコ(BINCO)」とした。型番は“ヒビノ・バッフル”から「HB」、HH3000と同様に4ケタの数字をつけて「HB2000」とした。

1978年2月20日、ボブ・ディラン日本武道館公演はこの日を皮切りに、当時の武道館では最多記録となる8回公演を果たした。BINCOシステムは、Stanal Sound社のスタッフから絶賛され、同公演は大成功を収めた。




菅野ヘッケル:musicbook(有料)
ボブ・ディランにあったらよろしくと/ 1978年 武道館 Part 1 (iTunes)
ボブ・ディランにあったらよろしくと/ 1978年 武道館 Part 2 (iTunes‎)







P.S
地震について:
1978年1月14日に伊豆大島でマグニチュード7.0の地震が起こっている。横浜で震度5、東京、静岡などは震度4だった。来日前のディラン達の耳にも入っただろう。ディラン達が遭遇したという地震。果たしてあったのだろうかと調べてみた。それらしきものが、一つあった。2月20日、日本公演初日の午後1時36分。宮城県沖、マグニチュード6.7の地震。東京の震度は3だった。


記者会見:
17 February 1978
Press conference, International Airport Haneda, Tokyo, Japan
Source: Circulating tape

Ladies and gentlemen, we proudly introduce you to the world famous superstar, Mr Bob Dylan!

Q: I’m sure you are very tired, but we are very welcome to you, very welcome to have you in Japan.
BD: Good.

Q: We haven’t had any concerts in the recent two years and what is your motive for holding these concerts in Japan?
BD: What is my motive?

Q: What motivated you to come to Japan?
BD: No motive, just… that’s a place we always wanted to come to play.

Q: For the Japanese tour you have rehearsed for about two months—is that right?—do you always do that?
BD: Well… we are always rehearsing. We’re rehearsing to record an album. We’re always rehearsing. We never stop rehearsing.

Q: Are you going to introduce any new songs in these concerts?
BD: Maybe.

Q: What is the title to the songs?
BD: Oh, various titles, some don’t have any titles yet.

Q: At the press interview in Los Angeles you said you were on your new album already…
BD: Uh-huh.

Q: …and that the theme for it is “love”. What is your concept for love?
BD: There are different reasons(??)

Q: ??? (dismayed) Is there any difference between your love and the love that Beatles sing, or you’re going to sing about love?
BD: Huh?

Q: Is there any difference between their idea of love and your idea?
BD: They might be… of a different point of view.

Q: What are the differences?
BD: My point of view is less abstract than their point of view.

Q: I see… Up till now you used to sing the protesting songs, right? How do they come about for making the theme love this time?
BD: Well, protest songs are really love songs, too. They were my most brilliant love songs.

Q: [Japanese only]
BD: Well, I’m not a god of folk songs.

Q: Then what are you?
BD: I’m just a person.












2 Responses to “1978年初来日”

匿名 さんのコメント...
2017年1月4日 1:23

余計なことですみませんが、↑ご掲載写真でエプスタイン氏と話されている日本人は永島達司氏ではなく東芝音工の石坂範一郎氏かと思います。


smz さんのコメント...
2017年1月11日 1:06

匿名さん。
コメントの公開が遅れてしまって本当に申し訳ありませんでした。さっき気づきました。

件の写真、ゲッティーが持っている物なのですか、クレジットが永島氏となっていたので、そうだと思っていました。

gettyimages

東芝音工の石坂範一郎氏なんですね。

ご指摘ありがとうございました。
感謝します。


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