スーパーマン・セオリー


ある画家のはなし



ニューヨーク、トライベッカのアーティスト、ロブ・マンゴー(Rob Mango)。彼がディランと出会った時のことを淡々と話している。



Househunting with Bob Dylan in Tribeca



10月のある金曜日、私はジョー・マクナマラ(Joe McNamara)の展示会のオープニングパーティーの後片付けをネオ・ペルソナ(ギャラリー)で他のアーティスト達とやっていた。カウンターの中にはアン・マリーがいた。ふと見ると、ドアの所にNYUのフード付きスエットを頭からすっぽりと被った男がいるのに気づいた。私はアンを驚かせないように声を出さずに静かに彼の名前を告げた。カーリーヘアーと伝説的な鼻だけがフードの陰から見えていた。





ボブ・ディランは平たい箱を抱えていた。その中には彼が描いた水彩画が詰まっていた。壁に掛かっていたジョー・マクナマラのスーパーリアリストの絵には反応せず、カウンターにいたアン・マリーに話しかけた。彼は壁にあったMerger in the Wingsと題された3枚続きの大きな私の作品に気づいた。1980年代の企業買収を風刺したウォルストリートの絵だ。14番街のショッピングモールが描かれている。




Merger in the Wings

これは彼の笑いを誘った。彼が笑ってる間、背後に二人の人物が来ていた。彼の秘書と、英国調のスリーピースを着た身長195センチのボディガードだと推察した。マクナマラの絵を見て、ボブと私は、数分間歩きながら不愉快な口論をした。これら、現実的絵画の美的哲学はディランが画家として表現している物の全ての対極にあった。

私は彼に「今、何か非常に違うもの…ビジュアルアートでめったに見られない題材を扱っています。何をもとにしたのかわかりません。天国だったかもしれないし、地獄だったかもしれない」と言った。それは彼の興味を刺激したように思えた。それで私たち4人は、デュエイン・トライアングルを横切って私のスタジオに向かった。


私のボブ・ディランの第一印象:
彼は用心深い、対立的で人の心をかき乱す。目つきが鋭く、常に知覚を働かせているように見える。そして、その日彼は1つか2つ、課題(アジェンダ)を抱えていた。


スタジオに着くと彼は壁の絵を見に静かに近くまで忍び寄った。ボブは、彫刻の施された大きなキャビネットを見て「ザ・スーパーマン・セオリー(The Superman Theory)」に近づいた。私は、ドアを開けて内部にある赤いネオンのスイッチを入れた。ボブは全体が見渡せるように後ろにさがった。




The Superman Theory


彼は、絶妙にバランシングされた純粋な劇場空間に好奇心をそそられたようだ:
未加工のエクスプレッシヴ・カラー・ペインティング、そして、素晴らしい詳細図。抽象的なシンボリズムと純粋に本能だけの動物から、芸術的巨人(私が選んだ今世紀のヒーロー)と知性によって人間へと進化する物語、その二面性がある。この惑星にこの戦略を理解するものがいるとすれば、それはその前に立っている男だ。


その物語の大部分はすぐには明白にはならない。しかしボブはそうではなさそうだった。彼は開いているドアに近づいて側面の内部を調べていた。

彼は、全てのスーパーマンがペンとインクで細かく描かれているのを見て、そして彼自身を発見した。立ってギターを弾いている。そのパンツのストライプは、パブロ・ピカソの手に持たれた大きなブロンズの静脈から伸びてきたものだった。その二人の人物が私の一番重要な二つの芸術的ヒーローなのだ。この二人は間違いなく20世紀で最高のアーティストだと考えている。どうやらこの文脈の中でのボブのスケッチはOKだったようだ。



ディランが描かれている。反対側にピカソがいる


Picasso Channels Dylan ※恐らくもとのイメージ



扉を閉めた状態。電源コードが見える



これをきっかけにお互いに良い方向に進展し始めた。私たちは階段を降りてペインティング・スタジオに入った。部屋の明かりをつけると彼はすぐに「ミレニアム(Millennium)」の方を見た。ボブの心が光速のように動く…というのは誇張でも何でも無い。彼は即座に点在するもの達に注目した。文明、自然、未来、過去、エジプト人が表す普遍的精神、永遠のミューズ、そして、もちろんニューヨーク。私たちは互いに理解していたある種の絵のコードについて話し始めたが、他の人には分けがわからないものだったかもしれない。



Millennium


ボブは高さ2.4メートル、幅3.6メートル、奥行き1.8メートルのキャスター付きイーゼルに乗っていた絵の周りを歩いた。彼は絵の後ろ側を見てショックを受けていた。彼は後ずさりして私の隣に来て、彼と一緒にステージにあげる事が出来るかと訊ねた。ボブはちょうど、優美で苦痛で告解でグラマラスな傑作Oh Mercyを終えたところでコンサート・ツアーの準備をしていた。彼はアシスタントに何か言って、その彼女が私の電話番号を書きとめた。

私たちは階段を上り、上の階で広範囲の話題について話をした…一つだけ話せる事は、それが私の芸術的な見方を変えたということだ。ボブが抱えていた箱には彼の絵が入っていた。彼は箱を床に置きバックルを外し数枚の優れた水彩画を私に見せた。これらの絵の隅々から、明確な図法、感情と表現を表していた。全ての線と筆運びは間違いなく、感覚を伝える意図で満たされている。ボブは計画的なマーキングなどを使っていないように感じた。※厳密な下絵を描いてないということだろう

ボブは自分の水彩画の複製を本にするアイデアについてどう思うかを私に訊ねた。
「あなたは、あなたの音楽と詩で伝えている」私は答えた。「本当にそれを絵でやりたいのか? 彼らは出版したがっているでしょう、あなたがやるのだから。それは上手くいくのだろうか? 後になってあなたはそのことをどう思うだろう?」

ボブは無表情で私の意見を受け入れた。私たちは速いペースであれやこれやと話をした。側でボディーガードがいて、たまに秘書がメモをとっていた。

必然的に1989年のトライベッカの不動産の話になった。ボブと話すのに何も変わりはない。彼はこのあたりにとても興味を持っていた。ディランは、見学することが出来る空きビルを知らないか? と言った。すぐに思い浮かんだのは、176デュエインにあるゼニス・ゴドリー・ビルディングだった。そこは正確には商業ビルだが、今は閉めている。私は管理を任されていたので鍵を持っていた。


1990年のゼニス・ゴドリー

ゼニス・ゴドリーは、バター、卵、乳製品などの卸売りを80年やっていた。正面は、176デュエインに面していて、裏には大きなガレージがリード・ストリートに通じていて、セミトレーラーのヘッドやトレーラーが数台並んでいた。5階建てのビルの上の階には1920年代の沢山のレジ、電話、古いタイプの計算機(加算機)などで一杯だった。下の階は、床にオイルを垂らしているディーゼルエンジンで散らかっている。他の部屋には、全長9メートルの看板が置いてある。全てが古いニューヨークの博物館という感じだ。

ボブはノスタルジックな感覚をを持っていてオールド・アメリカンが大好きだった。彼は古いレジや内装にノックアウトされ時間を忘れていた。しかし問題があった。周りの建物が2階建でとても低く、いたるところから窓を覗ける状態にあった。自然光を重んじるのであればこれは良い事だがプライヴァシーが最重要なら良くないポイントだ。

彼は「ビルに幾らかかる」と訊いた。
私は概算で「200万ドル(2億8千万:1989年当時)」と答えた。


現在のゼニス・ゴドリー



彼は私に交渉を開始するようにと急がせた。彼は、機械やその他のガジェットを含んだそのままの状態のビルが欲しかった。私はリードストリート側にも廻って後ろ側からも見てみようと提案した。太陽が降り注ぐさわやかな午後の日差し、道には昨夜の雨が残っていた。私はボブと一緒に歩道を歩いていた。後から二人もついてきた。私たちはグリニッチとリードストリートの角で立ち止まり、彼が住んでいた60年代中頃のヒューバート・ストリートの頃からどのように風景が変わったかを話した。

突然、2個の大きな回転ブラシを持つ道路清掃のトラックが角の所に現れた。昨夜の雨を利用して歩道の縁石をこすっていた。ボディーガードと秘書は1.5メートルほど後ろにいたが、ボブと私は回転ブラシで思いっきり水を浴びせられた。私は笑ったが、彼がこのことをどう扱うかと思い、直ぐに頭を切り換えた。私たちは本当にびしょぬれだった。彼は、表情豊かな口元から歯を見せて、ニヤリと笑った。そして何事も無かったかのように歩き続けた。



現行のニューヨークの清掃車


私たちは、ビルと私の絵に関してプランを立てた。ボブは私に前のマネージャー、アルバート・グロスマンの仲間だったナオミ・サルツメン(Naomi Saltzman)の電話番号を教えた。ナオミと夫のベンはそれで友人になった。数日後、サルツメン夫妻はリムジンで私のスタジオにやってきた。そしてヘレンと私は車に乗り込んだ。私たちはニュージャージーのパフォーミング・アーツ・センターまでドライヴした。その屋外会場でアルバム「オー・マーシー」から選ばれた曲をボブが演奏するのを聞くためだ。

私は楽屋に挨拶に行った。私とボブとの関係は彼の仲間を通じて継続していた。(結局ボブはビルを買わなかった)

私は、ボブに会ったあと直ぐに「ミレニアム」の前と後ろにサインを入れた。私の絵をステージで使うことに関して、ディランの事務所とコミュニケートを続けていた。しかしながら問題があった。絵の中心となってるイメージは、エジプトのファラオの覚醒だった。しかも宝石で飾った彼の付添人Sechretも描かれていた。それは、エジプト人やアラブ人と受け取られる可能性があるとボブに助言した人がいるとナオミが教えてくれた。

ユダヤの遺産の一人であるボブがキリスト教のアルバムを作ったことで多くの人にショックを与えた。彼が「ミレニアム」を使うことにブレーキがかけられた。彼はナオミを通して遺憾の意を表した。

その後、国中をツアーしたボブのフォレストグリーンのトレーラーで再び会う機会があった。当時、彼は飛行機よりもロードを好んでいた。前とは別のニュージャージーの屋外コンサートの駐車場だった。美術のことを少しだけ話して笑い合った。彼は図録の出版はしないことに決めた。そして当分は秘密にしておくと言った。


私は「ミレニアム」の失望を心の中にしまった。しかし、いつの日かボブの中でマンゴー・ペインティングが見られる事を願っている。

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どうやらディランは、ミュージシャンとは話が出来ないが画家とは話ができるようだ。一人の画家としてマンゴー氏とハイレヴェルな話をし、さらに助言まで与えている。マンゴー氏が強力なディランファンだった事を考慮しても驚くべき事だ。ディランの美術に関するうんちくはかなりなものだと想像出来るが、「知識」と「わかっている」は密接な関係があるがそれは別問題だ。

ディランがステージで使いたいと言った「ミレニアム」はブリティッシュ・エアーの窓から見た超写実的に描かれたニューヨークの風景、その翼から、ツタンカーメンが目覚め、クライスラービルには冠のようなものを被った従者のSechret(女性)が描かれている。※Sechretというのは何者なのかは全く知らない

最初からディランがステージで使う絵を探すために、うろちょろしていたのかはわからないが、ミレニアムに決めたのは、そのときの閃きのように見える。結局、絵は使われなかったが、やはり例の「アイロゴ」を連想してしまう。アイロゴ…正確にはクラウン・アンド・アイ・ロゴ(目の上に冠が乗っている)だ。このアイロゴはご存じの通り「ホルスの目(ウアジェトの目)」と呼ばれているものだ。日本を代表するボブ・ディランのサイトを運営する西村氏によれば、アイロゴは96~97年頃には登場していたようだ。ちょうどディランのイジェプシャン・レコード(Egyptian Records)の第一弾、ジミー・ロジャースのトリヴュートアルバムをリリースした時(1997年10月)でそれに関係があるのではと言われていたようだ。





勝手な想像を言わせてもらえればアイロゴ、ミレニアムに繋がっているのではないだろうか。アイロゴの冠がSechretの冠にも見える…というのは言い過ぎかもしれないが…絵ではなく、エジプトを表すシンボリックな物に変化したとか…因みにアイロゴのデザインは衣装のスージーということらしい。ディランの中には確実にエジプト的な何かがあるようだ、まぁ個人的の趣味のような気がするが…最近のスピーチでも言及していたアラビック・ヴァイオリン、エジプトに関係ありそうな(笑)…。

マンゴー氏が行ったというジャージーのライヴ。原文のコメントにもあるが、その頃ニュージャージーでライヴをやっていない。まぁ深く追求してはいけない(笑)。それにしても芸術家の言い回しは難解だ(笑)。













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