ケン・リーガンはローリング・サンダーレビュー (RTR) でオフィシャル・フォトグラファーになってから以後30年以上、ボブ・ディランを公私にわたり撮影してきた。先月、ディラン70歳の誕生日にRTRでの25ページの限定未公開写真集(350冊) を
出版、合わせてモリソン・ホテル・ギャラリーで
エキシビジョンも開かれた。彼はツアーで13,750枚の写真を撮った。
以下インタビューから
1974年、私はタイム誌の仕事をやり始めた頃、ディランがザ・バンドと行っているツアーの最後の数日を撮らないかと言ってきた。ディランの写真は既に公開していたが、それらは客席側から写した物だった。ちょうどツアーのプロモーターだったビル・グレアムを知っていたので、助けを借りようと連絡を取ったが彼は「難しいだろう」と言った。
数日後ビルから連絡があった。「ボブが合いに来れるか」と言ってるという。しかし「ボブの邪魔をするな、わずわらすな」と釘を差されたので結局、何も頼む事が出来なかった。
私は壁の上に止っているハエのようなものだった。
そしてボブに合い、2分だけ話しした。彼は私の作品を知ってると言いじゃまはしないでくれと言った。私はバックステージに入る事が許されずただ、コンサートの写真を撮ることだけを許された。それは本当に悩ましいことだった。
私は観客が泣叫び絶叫している姿を撮った。観客を撮っていると前から3列目の席に年配の女性が居ることに気がついた。
彼女は本当に面白い顔をしていたが場違いな所にいるような気がした。他の観客より40歳は年上に見えた。相当に音楽好きなのだと私は思った。
2日目の夜、彼女はまたそこに居た。私はまた彼女の写真を撮った。3日目の夜、ツアー最終日のこの日も彼女は来ていた。私はさらに彼女の写真を撮りまくった。彼女は周りの子供達が泣き、叫び、絶叫している中、大きな笑みを浮べながらそこに座っていた。
私はビルに「彼女の事に気がついたか」と尋ねた。
ビルは「ああ、彼女はボブの母親だ。彼女に関わるな、写真も撮るな」と言った。
私は既に50枚近く彼女の写真を撮っていた。
ビルは「写真は絶対に公開するな、もし公開したら今後ボブに500ヤード以上近づけなくなるぞ」と言った。
タイム誌に送る写真は既に選定済だったが、母親の写真を引抜いて送った。
2週間後、母親の写真を含む数枚の写真とノートをビルを通じてボブに送った。私はボブに彼女が何故そこにいるのか知らずに撮ったが、とても面白い写真が撮れた事、そしてその写真はタイム誌には送らず全て自分のオフィスで鍵をかけてしまい込んであること、そして今回写真を撮るチャンスを与えてくれた事に感謝すると伝えたが、一切の返事は無かった。それは本当に悲しかった。
それから1年ほど経った9月のある夜、私はガールフレンドと一緒にベッドの中にいた。そこへビルから電話がかかってきた。そして「この先、3ヶ月か4ヶ月、何をしている?」と尋ねてきた。
私は「わからない」と答えるとビルは誰かに電話を替った。電話に出た男は、ルー・ケンプと言う男だった。ボブの幼なじみでビルのパートナーだった。彼は「ローリング・サンダーというツアーを組んでいる。ボブが中心となって素晴しい一団を率いるツアーだ。ボブは君が作品のサンプルを持って来るなら会いたいと言ってる」と言った。
※この電話をしてきたのはバリー・インホフ (Barry Imhoff) だと最近のウォルストリート・ジャーナルのインタビューでは言っている。
そう言うと今度はボブ本人が電話に出た。
ボブは連絡がとても遅くなった事を詫びた。そして私がこのツアーのために目をつけていた3人の写真家の中の一人だと言った。そして「そう言えば、あのノートと写真、君が公開しなかった母親の写真は本当に感動したしありがたく思っている」と言った。
次の日彼らと会い、そして雇われた。それから30年間ボブと共に仕事をした。
ボブは「私は契約書のようなものにはサインをするつもりは無い。握手をするだけだ。2つの約束を守ってほしい。一つはツアーには私の妻や子供が同行する。これらの写真は絶対に公開しないでほしい。二つ目、ライブが終ると毎晩パーティーがある。僕と君はパーティーに出てどっかの椅子に座り
コンタクト・シート(ベタ焼き) を見ながら写真を選ぶ。その時僕が"yay or nay"と言うから」と言った。 実際10月31日から12月6日まで毎晩ボブとこれを行った。
ボブは一人で居ることが好きだったが、私は更衣室だろうが何処でも入って行って写真を撮ることが出来た。しかし子供の写真だけは許され無かった。以前、子供を撮ることを許した写真家が約束を破ってその写真を販売した。彼はくびになった。
2001年、ボブのマネージャー、ジェフ・ローゼンから連絡があって、こう言った。「タイム誌がボブ表紙にしたいと言ってる。ボブは君がいいと言ってるんだ」それで、アリゾナの丘で素晴しい
マジックアワーの中でボブの写真を撮った。ボブは真っ白なスーツを着ていた。その時の素晴しい光は、これまでの私の人生の中、アフリカ以外では見たことが無いような素晴しいものだった。ボブと1週間ほど過した後、タイム誌に全てを送返した。ニューヨークに9月10日に帰った。そして9.11が起った。タイム誌はボブの表紙をボツにした。
数年前、コロラドのテルライドに来てくれないかとボブに頼まれた。コンサートが終り次のアリゾナへ移動するために、我々は急いで荷物をパッキングしていた。そこへローディーの一人がやって来てボブが今すぐ来て欲しいと伝えてきた。私はカメラを掴んで彼の所へ向った。
K:「どうしたんだい?」
B:「多分、信じられないと思うけど、誰がここにいると思う?」
私はエリック・クラプトンがゲストで演奏に来るという噂を聞いていたので「クラプトン」じゃないかと言った。するとボブは笑いながら「違う、
ノーマン・シュワルツコフ」だと言った。
シュワルツコフは観客の一人として客席に座っていた。コンサートが終って誰かにバックステージのボブに会えないかと尋ねた。それを聞いたボブはふり返ってアシスタントのスージーに「とっておきの帽子を取ってくれ」と言った。そしてシュワルツコフが来た。二つの正反対、両極の象徴が目の前に揃った。私は2人の写真を撮ったが、それは未だに未公開だ。
最近のボブはもう写真を撮られたく無いようだ。1、2回トライしたがトップライトでいつも帽子を被っているので顔が見えない。
おまけ....
見てるよな....こそっと見てるよな....そういうところを見逃さないのが写真家の性....
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