『コンプリート武道館』発売記念イベント

その1



11月26日(日)、ボブ・ディラン『コンプリート武道館』発売記念イベントが都内で開催された。
”『コンプリート武道館』の制作関係者が語る“イベント11/26(日)開催!発売記念に100名様をご招待!
今こそ語ろう、『コンプリート武道館』制作関係者による秘話の数々。ボブ・ディラン『コンプリート武道館』発売記念イベント・レポート。


今回その中から、菅野ヘッケル(総合監修・共同プロデューサー)、鈴木智雄(2023REMIX)、田島照久(アート・ディレクション)、白木哲也(共同プロデューサー)の4名によるトークショーをリポートする。聞きちがい等あるかもしれないがご容赦願いたい。
開演までの間、この映像が、ステージで流されていた。



司会進行は白木氏。
まずは1978年当時の話から

白木:ヘッケルさん、ボブ・ディランの公演が決まった瞬間というのはどうでしたか
菅野:前の年77年12月、プロモーターが記者会見をして発表したんですね。僕はディランがいつか日本に来てくれるかな、来てほしいいなくらいにしか思っていなかったんですけど。77年の12月15日だったかな、ホテルオークラで記者会見があってボブ・ディラン来日公演が発表されたんです。僕はそのときはホントに来るのかなと、78年の2月になるまで不安も少しありました


白木:初来日公演で、いきなりライブレコーディングなんて、今だとちょっと考えられないんですけど
菅野:レコード会社の洋楽ディレクターの仕事って基本的には、海外で出たレコードの中から日本のマーケットに何が合うか選んで出す、音作りに関して何ら手を加えることは無いんですね。日本にいる洋楽ディレクターに何か出来る事って言えば、ライブ録音。あるいは、日本で何か録音出来る機会があるかもしれないが、ほとんどがライブしかない。だからもしディランが来たらなんとしてでもライブを録りたいという、それはもともと夢があったんで、その夢を上司にチラッと伝えたというのが始まりです

白木:チラッとですか
菅野:ていうのは、ディランにそんなライブを日本で録るなんて話を普通はもっていかない。しかも74年にビフォー・ザ・フラッド、77年にハード・レイン、ライブ、ライブと続いているところで、またしてもライブて話はね、なかなか持って行きづらかったんじゃないかなと思います

白木:ホントにレコーディング出来ると決まったのはいつですか
菅野:交渉を続けてもらって、最終的にはボブ自身が日本に行ったときに返事をすると言われて、ボブが2月17日に羽田について翌日にソニー・レコードとプロモーターと打ち合わせがあった。そのときにボブが、3日間テープを回すだけならいいよと、発売するしないは別問題として、録音してもいいというふうに話が来ました

白木:そのとき鈴木さんは、レコーディングするからよろしくみたいな話があったんですか
鈴木:よろしくというか、やるかもよと、用意はしてくれと、で機材等々集めて、テープも大量にオーダーして、あのー、録音するだけだったという話はつい最近きいた話で、やろうと思ってて武道館に機材セットしていましたね

白木:田島さんはライブの前の段階でジャケットの話とか出たんですか
田島:いや、全く無かったと思います

白木:終わってからという感じですかね
田島:終わってからも無かった
菅野:いや、あの、そんなことは無い。終わってラフ・ミックスを持って行くという段階で、ダミージャケット作ったわけだから

白木:ずっと同行していて、ボブ・ディランと何か話したりして印象に残った事は
菅野:一番最初に会ったのは、17日の羽田空港で自己紹介して、ずっとあこがれてますって話を伝えたんだけど、ボブは、うんそうかって感じでいたんですけど、ツアーが始まる20日からは毎日3時くらいからかな、サウンドチェックをやるんですね、大体2時間くらい、そのときから僕は会場に行って側で見てるんだけど、時々話す機会もあったりして、話すと言ってもこっちから何かわーわー言いたくなかったんで、ボブが何か言ったら答えるそんな感じで見てましたね

白木:京都に行かれるじゃないですか、これすき焼きですよね
菅野:そうそう、すき焼き湯豆腐

白木:湯豆腐!そうですか
菅野:京都、有名だから



白木:この写真、結構一杯あったんですけど、でもOKが出たのが何点しか無かったんですけど。普段のボブ・ディランて今の我々には、もはやわからないんですけど当時はどうだったんですか、覚えてるくせとか、しぐさとかあります
菅野:しぐさとか、そんな細かく観察してるわけじゃ無いから、ただそんなに背が高くない、僕と同じくらいかな、そういうこともあるんだろうけど、割とビンと大きく見せてるのかどうかわからないけど、姿勢はかなりいい感じで元気よく大股で歩く、そんな印象がありましたね

白木:録音の当日、何か凄く大変なことはありましたか
菅野:僕の方はただただ時間が来るのを待ってるだけなんで、一番大変なのはトム(鈴木さん)のエンジニアの人たちが一番大変だったと思う

白木:もともとは何日間、録音する予定だったんですか
鈴木:僕が聞いたのは5日間、5日間録音の用意をしろと、ですからテープがとんでもない数になって、武道館の椅子倉庫を中継室というか録音室にして壁一面に2インチテープが積み上がっていくそんな状態でした。

白木:マイクのセッティングを含めて、向こうの人(PAエンジニア)もうるさいんですよねきっと
鈴木:それはそれはもの凄くナーヴァスな人で、我々はステージに上がれなかったですね。

白木:実際ステージに上がれなくて、ショーも見れなくて録音しなくてはいけなかった
鈴木:そうです。小さいカメラが置いてあって、こんなモニターでステージを見ながらやりました。武道館は初めてで、テープレコーダーが1台270キロあるんです。それを一階から男が6,7人で担いで階段でおろすわけです。エレベーターもありません。それを廊下を走らせて2台、録音室まで運び込むんです。それが一番大変でしたね

白木:ライブ盤て、ちょっとミスったりすると削ったりするじゃないですか、そういう気になったところ何かありましたか
菅野:いや、ボブは完璧な男なんですよ。ほとんど完璧に演ったなと。だから手を加えるなんて勿論考えなかったし、余計なものを取り除くという作業も無く、本当の意味であの日ステージ演ったサウンドをそのままレコードにするこれが目的でしたね

白木:録音したあとはどうなったんですか、ボブ・ディランがOKしてくれないと、全てがダメになってしまうわけですよね、実際どう進めて行ったんですか
菅野:ボブが帰ったのが3月5日ですね。そのあと3月中旬くらいから六本木に当時はCBSソニーのスタジオがありまして、そこに彼と籠もってミキシングをやるわけです。もともとは3日間録る予定だったんですけど、ボブ自身が2日録ったあとで凄くいい演奏が2日とも出来てるから3日目はもう録らなくていいよと言ってくれたんで、それですごくテープ代も節約できるわけで、だから2日間の完璧なマルチ・レコーディングのテープが残ったわけでそこからミキシングをやるわけですね。当時は最初から2枚組LPと企画が決まっていたんで、当然ながら全部入れる事は出来ない。だから何を入れるかという選曲で結構悩んだ、かつLPって片面15分から20分なんですよ、で僕は出来るだけ沢山入れたい。トムとケンカしながら、僕は30曲くらい入れてもいいんじゃないか、少々音が悪くなっても曲が一杯入ってた方が良いと言いながら選曲をした。タイミングの関係で曲順も変えなければ収まらない。そんなことをしながらミキシングをしてそれをラッカー盤、テストラッカー盤というのがあるんですが、それを作ってそれを持ってボブの許可を取りに行くという…ボブは6月1日から1週間、ロサンゼルスでコンサートをやるのでその時に持ってきてくれないかと言われた

白木:と言うことはその間(2ヶ月半)にミキシングやらアートワークとか作らないといけない。田島さん、相当短い間に作ったんじゃないんですか、2種類のアートワークがあったんですよね
田島:笑ってる顔と他にいくつか作ったような気がします
菅野:基本的には当時僕の考えていたことは、ボブのジャケットはボブの顔写真、横顔が一番いいんじゃないかと言う思いがあって一つは実際に出たアルバムともう一つは、珍しくボブが本当にニッコリ笑ってる横顔の写真があったんで、これはお見せ出来ませんが、その2種類ジャケットを作ってもらったんですね

白木:僕は両方のダミーを見せてもらったんですが、ほとんど出来てましたね
田島:当時はカラーで紙焼きのプリントを30cmの大きさで焼くんですね。だからほとんど出来上がってる状態のダミーが出来てたと思うんでうけど
菅野:そうカラーのプリントに僕が文字を貼り付けたものを2種類作って持って行ったわけです。最初にロサンゼルスについてからすぐにボブの秘書をやってるアヴァという女性(※Ava Magna→1978年初来日)にラッカーテスト盤4枚とダミーのジャケット2枚これをボブに渡してくれと、で彼女の方からはボブが最終的な判断を直接言うから待っていてくれと言われた。それから1週間、これがなかなかねぇ気が…当然僕の中では絶対OKが出ると思っていたけれど、最終判断はボブがするわけで、一抹の不安もあってコンサートも楽しんでるような状況ではなく、なかなか不安でした。

6月7日、LAコンサートの最終日の午後、秘書から連絡があって、ボブが今日午後から会いたいから来てくれといわれて楽屋に行ったんですね。会場がユニバーサル・アンフィシアターてユニバーサル・シアターの横にある野外劇場で楽屋と言っても全部、屋外で広いところにテーブルが幾つかあって、そこで待ってろと言われて待ってた。しばらくするとボブが一人でラッカー盤とジャケットダミーを抱えてやって来た。で、僕の向かい側に座る、座る瞬間、座ると同時にgood album、いつ出すんだと、いつ出すんだと日本語じゃないけれど、そう言ってくれたんです。でこの瞬間、これで出せるんだとホッとしましたね。その時の写真がこれです。OKが出たんでこっちもリラックスして話をしてて、カメラ持ってるから写真を撮ってもいいですかって聞いたらいいよっていうんで録ったんです。ボブは僕のカメラに興味を示してちょっと見せてといって今度はボブが僕の写真を撮ってくれたんですね。この写真は未発表

白木:さすがに、ヘッケルさんが写ってるだけですもんね
菅野:そうそうそう、見てもしょうが無いと思うんだけど、ただよく見るとちょっとピントがずれてる。だからカメラマンの腕としては僕の方が上かな



白木:じゃあここら辺で一曲。ヘッケルさん何かリクエストを
菅野:コンプリートの中から、前のアルバムに入れなかったザ・マン・イン・ミーを
白木:3月1日ですね。これファース・トシングルで
菅野:これ、ニュー・モーニングに入ってる曲なんだけど、ライブで演ったのは日本ツアーが初なんですね。そういう意味でも貴重で、オリジナルのアルバムとは歌詞が少し変わってますが
白木:じゃあ、アナログでザ・マン・イン・ミーを聞いてください





白木:ここからは鈴木さんにお話をお伺いしたいと思うんですが、2007年に一番最初にマスターを見たり聞いたりしたときどう思われました
鈴木:イヤー懐かしかったですね

白木:あの書いてある文字は鈴木さんが書かれたんですか
鈴木:あれは多分アシスタントの方々だと思います



白木:(マスターテープの状態が)綺麗でしたね、管理が素晴らしかった。開けたらビニールで包まれてて、指紋すら付いていないような感じでしたね。それで、30年ぶりに仮にミックスした時のこと何か覚えてらっしゃるってのものあります
鈴木:正直、2日でやったじゃないですか、ヘッケルさんもいて白木さんもいて、まぁほんとにざっとバランスでしたね。ミックスなんてこれでいいのかなと思いつつも、これしかないなという感じでやってましたね

白木:2007年の仮ミックスを聞いたときヘッケルさんはどうでした
菅野:勿論テープがあったと言うことに驚いたし、アット武道館に入れられなかった曲が幾つかあるのがずっと心に残ってたんで、完全テープでなんとか実現出来るといいなと言う思いがまず浮かびましたね

白木:それから15年間かかっちゃったんですけど、2022年の4月に許諾が出て行こうということになって、そこから音作りが始まるわけですね、今回のサウンドは何がポイントだったのでしょう、78年との違いとか
鈴木:まず、どうしよう? ですよね。78年のあのバランスを引き継いでやるのか、それとも新しい何かをと3人ではなし合って、でヘッケルさんが熱にこだわって、あのあつい熱のディランのコンサートを記録として残したいという話になって、で熱がキーワードになってそれでトラックダウンをしてヘッケルさんに送ると、ヘッケルさんから返事が返ってきて

白木:凄かったですねー
鈴木:凄かったですね

白木:訳わかんなかったですね。このリフは嵐のようにしてくれとか、すごく印象的な言葉が羅列されてました
鈴木:この曲はおどろおどろしくしてくれとか

白木:タンバリン、おどろおどろしくしてくれとか、でもそれがやっぱりイメージが湧くんですよね
鈴木:イメージが湧きます。はい
菅野:武道館での僕のイメージとして残ってるのはボブの声だったわけ。彼の声が会場の隅々に突き刺さるように伝わって行く、それが一番の狙い。そのためにはボブを中心に熱のこもったボブのヴォーカルを前面にだしたミキシングにしたいというのを常に言ってました。あとはバックのサウンド、ここのギターは雷のように切り裂けとかね。表現的にはそういうしか僕にはない。雰囲気では何かおどろおどろしくしい恐ろしい雰囲気を出したいからそういう風にしてくれとか、そんな無理難題な注文を投げかけたんだ。そうするとトムの方は、それを音として作ってくれるというかミキシングしてくれわけです。で出来上がったのが今回っていう風に思いますね



白木:明らかにテクノロジー進化が今回のサウンドに影響してると思うんですが、すっごいコードの写真とかあったじゃないですか
鈴木:この写真はプロツールスに取り込んでる写真なんですけど、このスタジオ(乃木坂スタジオ)だとマルチレコーダーからプロツールスに取り込むのに8mから10m、長いのは15mくらいになってる。ケーブルがテープレコーダーからコンソールに入ってプロツールスに行ってる。今回はそういう長いケーブルが嫌なんで、プロツールス単体を借りて、テープレコーダーの裏に1.5mのケーブルで直につないで取り込んだ。一番の問題はアナログ時は24CHフルにトラック入ってたわけで、オートミックス…コンピューターを使ってフェーダーの動きをコントロールすることが出来なかった。今回、プロツールスに取り込んだことによって、コンピューターで制御することが出来るようになったんで、例えば菅野さんからドラムのリフは嵐のようにしてくれと言われたとき4分音符の4つ、頭を小さくするか4発目を大きくするか逆にするかとかそういう細かい、1小節の中のタムタムの音までコントロール出来るようになった





白木:海外のアルバムとか歓声とかもの凄いじゃないですか、付け足したような、今回もちょっと静かじゃないかと思うかもしれないですけど、アレって2チャンネルにしか入ってないんですね
鈴木:そうです。マイク2本しか立ってないんですね。武道館て独特の響きがあるじゃないですか。あの独特の響きを出しちゃうと音全体が凄く濁るんです。なんでそこはイコライザーしてレベル設定を上手くやって、なんとかあそこまで歓声を出すことが出来たかなということです

白木:今日、来てらっしゃるかもしれませんけど2日目の録音で右チャンネルから凄い大きい日本人の声が入ってて、もしかして今のAIの技術とかで取れるかもしれませんが、ありのままで行こうということで残して、でもそれが海外の人からしたら日本人が盛り上がってるって、もしかしたらその方おかげでOKになったのかもしれないのかなと。あと、アナログを作るとき凄く拘ってましたよね。カッティングスタジオに機材を持ち込んだり
鈴木:今回、白木さんは日程とか、お金とかそういうことに関して一切枠を作らなかったんですんね。例えばさっきプロツールス借りたって言うのは本来ならば持ってくれば当然お金がかかるわけで、そういうことに対して、こうしたいと言うとああいですよ、いいですよって、全部やらせてくれたんで悔い残すことは何もなく出来たんですね。マスタリングにせよカッティングにせよ良いと思う機材を全部持ち込む事を相手方が許してくれたんで

白木:もの凄い機材をカッティング・ルームに持ち込んで、オリジナルで取り込んだものをそのままカッティングに使いたいと
鈴木:そうです、そうです。トラックダウンして、マスターレコーダーのDSDの音源をそのままカッティングに持ってって、電源ケーブルからラインケーブルから全て持ち込んでやった



白木:カッティングはワーナー・ミュージック・マスタリング北村さんにやって頂いたんですけど、さっきの溝の写真、これはライク・ア・ローリングストーンのサビの部分の溝なんですよ。これを北村さんが顕微鏡で見るんですけどスゲーなみたいな、そしたら写真撮ってくれて。太い音が出てるときは深く切られているということなんですよね。ここで聞き比べをしてみようかなと、78年盤と2023年盤、少しだけ比べたいなと。これ、鈴木さんからのリクエストで、フォー・エバー・ヤングを





鈴木:今回カッティング・ルームを選ぶ際、さっき言ってたマスターを作る段階での機材を全て持ち込んでいいか? という交渉から始まって、快くワーナー・ミュージックのカッティング・ルームが受けて頂いたんで、当日持ち込んで音を出して北村さんにこれでやっていただけますかという話から始まって無事にカッティングが進みました

白木:最初にテストプレスが上がってきた来たとき、テストプレスって良いものだとばかり思っていたんですけど、そうじゃなかったですね
鈴木:いやー、驚きましたね

白木:一番最初にカットしたんだから一番いい音だと思ったのに、やっぱりまだ熟れてないって事なんですかね
鈴木:そうですね。プレスに、なんて言うか機械が馴染んでない。あまりに思ってた音と違うんで私はレコードを持ってワーナーに走って、皆さんは別の場所で聞いてて、私はワーナーに行って、このレコードの音はどうなのって話をしたら、まぁこんなもんですよって話があってびっくりして

白木:ところが最初の10枚のうちに、すごい良いやつもあって、これは不思議でしたね
鈴木:不思議でしたね

白木:実際の盤が上がってきてどうでした
鈴木:いや、どのテスト版より音が良いんでびっくりしたんですよ

白木:アナログって不思議ですね
鈴木:不思議ですね


その2へ続く




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