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ボブ・ディランという運命

10月5日、ブラジルの統一選挙で敗れたエドゥアルド・スプリシー氏(Eduardo Suplicy)24年間勤めたサンパウロ州の上院議員の座を退くことになった。ディランファンでちょくちょく「風に吹かれて」を披露していたスプリシー氏、この日もインタヴューの途中で歌い出した。心情を表しているのだろうか。



スプリシー氏は歌うのが大好きなようで演説の途中でもこの通り歌い始める。ちなみに日本ではベーシックインカムでその名が知られているようだ。




東西南北(ニッケイ新聞)


50年前の曲が未だに人の気持ちを代弁するなんて、ディランはなんて凄い曲を書いたんだ!! なんて事は死んでも言わない(笑)。50年も前に言ったことを未だに「ディランはこう言った」と言い続けられる。悪い夢でも見てるようだがしかたない。死んでも逃れられない。死んだ後も言われ続けるだろう。もうそれはボブ・ディランという運命としか言いようが無い。

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ディランのシュタージ・ファイル(HA XX 17578)

今年は、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊してから25年周年ということで、ベルリンでも大きなイヴェントが開かれ、世界中のメディアでも25年を回顧するなど大きな話題になった。

その壁が崩壊する2年前、1987年9月17日、ディランは共産党に招聘され、トム・ペティやロジャー・マグインらと共に壁の向こう側の巨大なトレプトウ公園(Treptower Park)で7万人を前にライヴを行った。





ライヴを開催するにあたり、当時の東ドイツの秘密警察…シュタージ(Stasi)がディランを調査していたことを示す6ページの書類が保管されていた。主にロジスティックスやセキュリティについて書かれていたその書類には、81,000枚のチケットの内1/3が党の役員やその身内に行く事なども書かれていた。シュタージはディランはピークが過ぎたオールド・ロック・マスターで、当時の若者の共感を得てるわけではないと、さして心配をしてるようでは無かった。実際彼らは、中年から上の客層を予想していた。シュタージはディランが観衆の前で感情的では無く規律的に振る舞うだろうと予測したが、それでも広範囲な安全策をとり多数の工作員を周辺に配置した。





曲目はその年のツアーの標準的なものだった。期待されていたかもしれない揺動的な選曲や発言は当然無かった。

それは翌年、ブルース・スプリングスティーンが演った。




The Secret Police Document on Bob Dylan(Huffington Post)
Bob Dylan 1987 in Ost-Berlin







ドイツ統一と「シュタージ文書」

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ディランのパシリに使われてディランをヘロヘロにさせたモルテンズ(元漁師)





1990年のアイスランド公演、そのときの様子を地元のメディアLemúrinn昨年記事にした。

1990年6月27日、アイスランド レイキャヴィクでライヴを行ったディランだがその評判は酷かった。良くわからないが自転車を乗り回したり、ディラン指定のケータリング(…バドワイザー、ダノンヨーグルト、特定ブランドのミネラルウオータなどを含む)が超独特だったとコミュニスト系の新聞は報道した。確かにそれらの内のいくつかは今日のアイスランドでも入手が困難かもしれない。

ライヴの評判は賛否両論あったようだが、肯定派の人でさえ最初の3曲は緩慢な演奏だったと批判した。アコースティックセットになりディランがIt’s Alright Maを始めると観客は電気ショックに打たれたようになったと言う人もいた。

Lemúrinnの記事では、ディランのギャラの事にも触れられいたが、だいたいこんな感じの事が書かれていた。記事は昨年5月に公開された物だが、先月この記事にコメントを入れた人物が現れた。アイスランドのレジェンド、ブッピ・モルテンズ(Bubbi Morthens)だ。

ブッピ・モルテンズ:ホテル・エーシャ(HOTEL ESJA)で、ディランのの取り巻き全員と会った。バンドとディナーを一緒に食べた。この町にはマリファナが無かった。ディランとバンドのために大麻を調達してくれと頼まれた。急いで探しに行き何とか11グラム、上質な物を手に入れた。みんなとてもハッピーだった。舞台に上がる前にやってそのまま演奏に入ったから最初は最悪だったんだよ。最初の3曲はクルージングだった。












ブッピは「コンサートは最高だったよ」と付け加えた。

When Bubbi Dug Up Eleven Grams For Dylan (Grapevine)

ていわれると、見たくなるよな(笑)。

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オークション


来週、12月16日、クリスティーズ・ロンドンでディランが1968年に描いた妊娠中のサラの絵がオークションにかけられる。予想落札価格は、$78,200 - $109,480 (950万~1,300万円)。

もともと絵に興味があり高校時代に絵の勉強もしたディランだが、真剣に絵を描こうと思ったのはウッドストック時代だったようだ。1968年の5月、ディランは、27回目の誕生日にサラから油絵の絵の具箱を贈られた。近所に住んでいたアーティスト ブルース・ドーフマン (Bruce Dorfman) に基本的な使い方を教えてもらい、ドーフマンのスタジオで毎日二人で絵を描き始めた。ディランは最初フェルメールのスタイルを目指したがその後モネ、ヴァンゴッホを経てシャガールのスタイルが一番あっていたようだ。

サラがニューヨークの病院でサミュエルを生んだのが7月30日、そしてディランが絵の具箱をもらったのが5月の終わり…ということを考慮するとディランはこの絵を1968年の夏に描いたと推定される。

鮮明なフォーヴィスト・カラーや浮き上がってるような人物像を通して明確にシャガールの影響が見られるこの絵は、バードクリフのディランの自宅の居間の壁に掛けられ大切にされていた。

1974年、ザ・バンドとのツアーを終えたディランはニューヨークの絵の先生、ノーマン・レーベン(Norman Raeben)に会いに行く。ニューヨークから帰ってきたディラン、その日以来サラはディランを理解できなくなった。レーベンの影響を受け考え方が変わってしまったディランをサラは理解できなくなってしまった。それは二人の破局の始まりだった。ディランは自分の考えてる事をサラに説明することが出来なかった。

"I went home after that and my wife never did understand me ever since that day. That's when our marriage started breaking up. She never knew what I was talking about, what I was thinking about. And I couldn't possibly explain it"

ディランはサラとの離婚協議中に友人でパーソナルマネージャでカフェののオーナーであるバーナード・パチュレル(Bernard Paturel)にこの絵を譲った。その後コレクターのジョージ・ヘクチャー(George Hecksher)に渡ったのちジェフ・ゴールドがその所有者となった。多分あのアセテート盤を調査したジェフ・ゴールドだろう。

勿論、離婚の原因はそれだけでは無いだろうが、サラがプレゼントした絵の具箱が結果として離婚を引き起こしたのだとすれば、あまりにも皮肉な事だ。

この絵はディランのサラへの愛情がとても感じられる作品に思えるが…


Lot 57 Bob Dylan




Bob Dylan
Untitled (Sara), 1968
Oil on canvas, in original gold leaf frame, labelled Melvin Picture Frame Co., New York; accompanied by a copy of George Harrison's autobiography I, Me, Mine featuring a black and white photograph of Dylan and Harrison at Dylan's home in Woodstock, taken by Jill Krementz on 29th November, 1968, which shows this painting on the wall; and a letter concerning the provenance from noted Dylan collector George Hecksher
52x21¼in. (132x54cm.), framed




この絵にはおまけでジョージと青春している写真がついている。写真にはこの絵が写っている。



11/29 (1968)





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