勝山泰佑インタヴュー



2005年の情報マガジン『ぐるり』に写真家 勝山泰佑さんのインタヴューが掲載されており、その中で少しだけディランのことに触れられている。ほとんどがニール・ヤングの話だが、ディランを撮影するまでの経緯が語られていて興味深い。
聞き手は昨年亡くなった田川律さん。

田川:ボブ・ディランが1978年に最初に来日した時あなた撮ってたやん、あなたの話で一番面白かったのはね、金貰うときにアタッシュケース開けたらね、ピストルとお金が入ってたって話やけどさ、あれは事実なんでしょ?
勝山:それは公認会計士だよ。ぼくはニューヨークのオフィスに訪ねたんだけど、エンパイアステートビル近くのすごい上の方だよ。 アタッシュケースに手錠してたもんな。

田川:あれはどこから来た仕事なの?
勝山:どこからも来ないよ。あの当時キョードー東京ともうずーっと喧嘩してたよ。その前の1976年にニー ル・ヤングを撮りたいと思って、まあ撮ったんだけど、 どうしても撮りたかったわけ。で、まあ、まずキョードー東京に色々当たったんだけど、誰も撮らせないわけ。 まあ、それはそうだよね、ぼくは全部撮りたいって言ったんだから。 ずっとくっついて行ってね。 当時は(頭の何曲)とかはなかったかな? よく分からないけど…

田川:その頃はなかったかな。(〈頭の何曲〉というのは、 コンサートで撮影許可が出るのが開始から何曲と決まっていること) その頃はまだ全部撮れたんじゃないかな。
勝山:とにかく撮らせてくれないの。 で、 遂に来ちゃったわけよ。だから羽田へ行って、記者会見があって、 羽田から東京プリンスだったかに移動して、東京プリンスに泊まるっていうのでそこへ行った。 で、クルーの人たちが色々出入りするのは分かったんだけど、僕はどうしていいのか分からなかった。 誰かに託そうと思って、僕はホテルのロビーで便箋に手紙を書いていたんだよ。 そうしたらビリー・タルボットっていうベーシストがいるよね、 彼が出てきた。 なぜ撮りたいかとか、今音楽が世界で果たす役割みたいなものとかを書いていて、誰に渡そうかと思っていたらビリーが来たわけ。それで、「どうしても撮りたいんだけど、これをニール・ヤングかマネージャーに渡してほしい」て言ったんだ。そうしたら ビリーがサーッと読んで、「明日の朝とにかく来てみろ」 って言うわけ。後で分かったんだけど、ビリーも僕と同い年なんだよ。去年か一昨年か「グリーンデイル」で来たときにまた会ったけど。で、次の朝に行ったの。リハーリルがあったんだ、武道館で。行ったら、撮ってもいいってことになったの。それですぐ来いって言われてニール・ヤングの部屋に行って、そこでマネージャーなんかと一緒に果物とか朝飯がウワーッとテーブルに並んでるのを食べながら色んな話して。そうしたらニール・ヤングが「とにかく全部撮れ」と言ったわけ。それでスケジュールも教えてもらってね。そうなったら今度は楽だよね。ガードが一人付いてくれて、僕に何かありそうだと彼が守ってくれてね。そういうことでもって、ずっと撮ったわけ。

田川:へえ。でもあなたが撮ったニール・ヤングって見たことないわ。
勝山:そうでしょ。 『アサヒグラフ』 でやったんだけど、それくらいだったから。それでね、ツアーの最後の方でアルバムを5人分作れって言われたわけよ。ああ、これ 田川さんに話す機会があってよかったな。

田川:私が一番好きな一人ですもん、ニール・ヤング。
勝山:それでね、ドラムスのラルフ、 それからギターのフランク・サンペドロ、ベースのビリー・タルボット、 ニール・ヤング、それにマネージャーのエリオット・ロバーツ。この5人の分を作ったわけ。5冊で一人分なの。 ここにあるこれは一部だけ自分用に取ってあるものなんだけど、カバーの布は自分で選んで、最初は糊が付いてるから洗って、京都の鳩居堂ってところに持っていって、 アルバムにしたんだよ。

田川:で、 これの一部が 『アサヒグラフ」に出てるの?
勝山:うん、ほんの一部ね。(写真を指して)この半纏は僕が縫ってあげたんだよ。これをニール・ヤングにあげたの。他のみんながJALだか何かの着てるから「そんなの着るな、ちゃんとしたのやるから」って言ってさあ。まあ、とにかくこういうアルバムを作って、友達にたくさん手伝ってもらって、飛行機の切符も買ってあるんだけど、なかなか出来なくてね。 まあなんとか作って、 アメリカまで持っていったの、トランクに詰め込んで。 そうしたらこんなの頼んでないって言うんだよ。もう無茶苦茶なんだから、最終的にはワーナー・ブラザースか何かが払うんだけど、これに対する写真の金じゃなくてこの中の5カットを、35ミリのポジをワーナーが買うわけ、デューブしたものを買う、と。それで150万円、 1枚で30万円くらい。僕は250万円で出したんだけど、 150万円貰えたからもういいやっていうかね、もう貰えなくても仕方ないかなって思ってたから。ひとたび話が決まるとマネージャーのエリオットもすごく良くしてくれてね。 色んな人の間に入って紹介してくれたりとかね。で、2年後の78年にディランが来て、その時も同じように撮りたいと思ったんだけど、やっぱりキョードー 東京が駄目なわけでね、で、エリオットに連絡したの。 エリオットの方もあんまり良い返事じゃなかったんだけど。で、後から分かったんだけど、ニール・ヤングがディランに電話してくれたんだって。それで撮れるようになって。それでずっと一緒に行って、撮ったの。

田川:ほんで、またこんなアルバムにしたの?
勝山:ディランはこういうアルバムにはしなかった。 でもね、『武道館』っていう2枚組のアルバムの中に何枚か入ってる。


Photo 50年 1963-2014 勝山泰佑 できごと / ひとびと から



ニール・ヤングがわざわざディランに連絡したというのは凄いはなし。
そう言えば、ポール・マッカートニーの武道館公演(1980年)のライブ録音にディランがエンジニアの鈴木智雄さんを推薦したそうだ。残念ながら例の事件でそれは実現しなかったが…
Abendrot LEARN - Everest 701 Interview with TOMOO SUZUKI (TOM SUZUKI)
鈴木事務所

ニール・ヤングが写真家の勝山泰佑さんをディランに推し
ディランがエンジニアの鈴木智雄さんをポール・マッカートニー推す
78年。



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