1978年初来日 2


メディアの反応




2009年、ミネソタ大学が出したディランの論文集、
Highway 61 Revisited: Bob Dylan’s Road from Minnesota to the World
*Project MUSE
の中に千葉大学文学部准教授 舘美貴子博士の論文 “Bob Dylan’s Reception in Japan, 1960s-1970s,(60年代~70年代における日本でのボブ・ディランの受け取られた方)” が掲載されている。中でも78年の初来日時のメディアの対応が素晴らしくまとめあげられているので抜粋させて貰った。

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1977年12月、ディランの日本公演が発表されると主要メディアの話題となった。1977年12月から1978年4月までの間、ディランの来日に関し、20の全国誌が39の記事と10のグラヴィアを掲載した。

女性自身は、ディランが手にしたロープがディラン人生で重要なグループの人達に繋がる相関図を掲載した。グループには『ディランが愛した女性たち』というのもあり、その中に、エコー・スター・ヘルストロムやスージー・ロトロ、ジョーン・バイエズ、サラ、ロニー・ブレイクリーが含まれていた。

日本のメディアは突然ディランが来日し、複数公演をやる理由を推測した。その多くの結論は離婚のための慰謝料だった。微笑は、CBS ソニーのディレクター、菅野敏幸氏の言葉を引用した「ディランは、自分の浮気で離婚し、別れた妻に離婚扶助料を支払う義務があった。妻の不信感と怒りは彼が浮気相手を家に連れてきたことも含まれていた」

また、他の雑誌はディランのギャラが3億5千万円と異常に高価なことを強調した。これはフランク・シナトラの倍のギャラだ。記事ではこのギャラがサラへの支払いに役立つと書かれている。その上、当時は円高だったので日本へのツアーは彼にとって有利に働くとも…。

ハワード スーンズによればワールド・ツアーの動機は実際、経済的な理由だという。ディラン自身が言っている。「借金の支払いがある…この2年ほど悪い年が続いている。大金を映画につぎ込み、大きな家も建てた。そして離婚」ディランは『魂を売るのに同意した』そして『儲かるワールド・ツアーは始まった』

週刊新潮は「ディランが日本公演を決めた理由が、離婚裁判での経済的危機というなら、日本は見下されたものだ。しかし一方で日本は経済大国になったという意味かもしれない」と書いた。

ただ、そうしたネガティヴな理由で日本に来るのは日本人のプライドに関わる、という事で、メディアは、ツアーの関する追加情報で見方を変えようと試みる。

雑誌は、ディランが禅と東洋哲学を高く評価していたので日本に来たがったとリポートした。女性セヴンは菅野敏幸氏が言った「ディラン自身、東洋哲学にとても興味を持っているので日本に行く事を楽しみにしている」という氏の言葉を引用した。また別の雑誌では「ディランがワールド・ツアーのスタートを日本にしたのは、おそらく、アレン・ギンズバーグやレナード・コーエンを通して東洋哲学に興味を持つようになったからだ」と同じく氏の言葉を紹介した。

大学教授の三浦久氏は、週刊プレイボーイに「ディランの曲の哲学は、禅宗と同じだ。Like a Rolling Stoneは、臨済録の中で書かれている事と同じ考えを示している」と書いた。週刊ポストはマリブの邸宅内に、日本庭園がある。それは敷地内にプールよりさらに高価だと書いた。

メディアは、明らかにディランが、日本の文化に興味を持っている手がかりを探していた。

一方で週刊ポストは「高価な出演料を要求したボブ・ディランのユダヤ商法」のようなタイトルの記事でディランを批判した。1966年、その当時、トップスターだったアンディー・ウイリアムスが、500万ドルの契約金と5%のロイヤリティーだった時、ディランは10%のロイヤリティーと150万ドルを提示し交渉をものにした。反体制歌手のフリをして、自らを高く売った。ディランと日本のプロモーターの契約で、出演料は円とドルの半分半分で支払われるだろうと書かれた。それは国際通貨不安を考慮したユダヤ人の鋭い契約だと、反ユダヤ的な記事を書き、ディランを強欲の商業主義者と批判した。また、ディランがユダヤ人であるところから、彼がイスラエルを支持していると批判、反シオニスト的な記事を展開した。その背景には、当時の左翼過激派グループの反イスラエル活動の影響が考えられる。

週刊明星は、吉田拓郎も岡林信康もコンサートには来ないと書いた。「拓郎は、コンサートに全く興味を示していない。アメリカで1974年の復活ライヴを見て以来、ディランにつて話すのを突然やめた」と彼に近い人物が雑誌に語った。また岡林は自身のコンサートが忙しく、ディランの公演に行けないだろうと予測し、もはやディランは、時代遅れだとも書いたが、実際には岡林はディランのコンサートに姿を表した。

似たようなやり方で週刊文春は、1月の時点でチケットの売上が芳しくないと書いたが、実際は同雑誌が3月に報告したようによく売れていた。

多くのネガティヴな記事にもかかわらず、ディランは依然として神秘的で神話的な人物として扱われた。ほとんどの雑誌は新しい情報はなく、以前の話題を繰り返していた。それは、日本でのディランの一定のイメージを作り出していた。しかし、直接取材した記事は、それらとは違ったディランのイメージを浮き彫りにした。




平凡パンチは来日前のディランに会うためリポーターをサンタモニカに送り、ディランにインタヴューをした。そこで、彼は、仏教や東洋哲学の興味とその知識が乏しい事を明らかにした。リポーターはアルバムDesireにある鎌倉の大仏を示し、ディランに仏教や東洋哲学に興味があるかを訊いた。ディランは「ブッダがブッダになる前に興味がある。彼はブッダになる前から神格化されていた。彼は本当に分身だった」と言った。ディランは一時、禅を学んだが、教えの殆どを忘れたと言った。学んだことで唯一覚えている事は『無』。さらにディランは日本に関して特別な興味は何も示さなかった。




伝えられるところによれば、日本に行くことに決めたのは、単に日本に沢山のファンがいるからだと彼が言ったという事だ。さらに日本のメディアがことさら強調していたのに反して、日本は彼が演奏を行う初の非英語圏の国では無かった。既にヨーロパで演奏している。

日本の『ディランズ・チルドレン』に何かアドヴァイスがあるかと訊かれると「もしこの種の音楽を勉強したいのなら、熱心に取り組み、アメリカに来る必要がある」と答えた。これは日本の信奉者に対する無関心と日本のミュージシャンの能力に対し期待していない事を意味していた。

リポーターはインタビュー後、ディランを全く理解出来なかったという感じだけが残されたと言った。それは、不思議なアーティストとしてディランのイメージをさらに強化した。

1978年2月17日、ディランが東京に着いたとき、彼は記者会見でいくつかの同じ質問に直面していた。雑誌はディランを無愛想で難解な人物と書いた。雑誌によれば、あらかじめ選ばれた数名の評論家のみが質問の許可を得ていた。

小倉エージ氏は、11公演全てを見て、包括的なリポートをニュー・ミュージック・マガジンに書いた。小倉氏の観測によれば、ディランは東京の3日めから観衆と接し始めた。大阪の観衆はすばらしく熱意があった。小倉氏は大阪の客層が東京よりも若かったからだと考えた。

平凡パンチも同様に、大阪の観客の80%が大学生かそれ以下で、彼らが敏感に反応したと報告した。平凡パンチはコンサートや街なかでのディランを詳細に記事にした。記者は10日間ディランについて回り、東京を探検しながら新宿で洋服を買ったり、フルーツパーラーでオレンジ・ジュースを飲むディランをリポートした。




神秘的で、無愛想だと書かれた他の多くの雑誌とは異なり、通りすがりのファンにサインすることもいとわない、物柔らかで愛想が良く、露天で未知の食べ物に挑戦する好奇心旺盛な人物として描かれていた。そして記事はディランの日本文化への興味で閉められていた。





ディランは囲碁に興味を示しそれを購入した。京都を訪問し鴨川の流れを見つめ、石庭で知られる龍安寺を訪れた。ディランが禅への興味や知識が乏しいという事実を知りながら、記事のライターは彼が「禅、富士山、流れる川を見たがった」と書いた。

ニュー・ミュージック・マガジンの小倉氏の包括的な記事や平凡パンチのオン・オフ・ステージの詳細な記事は、殆ど例外的なケースだった。大半の一般紙は、無愛想で不可解な、馴染みの曲を変なアレンジで観衆を混乱させるような、前時代の「フォークの神」のような書き方で彼を描写した。

日本版プレイボーイは、2月20日のコンサートでディランは、登場すると直ぐに歌い出し、終わると観客とのコミュニケーションも何もなく、また直ぐに次の曲を歌い出したと書いた。歌以外に彼が発した言葉は曲のタイトルと、曲が終わるたびのThank youという言葉だけだった。

作家のウィリアム・マッキーンは対照的だった。彼は、「ディランはしばしば無口(ザ・バンドとのツアーでは、殆どしゃべらなかった)だったが、日本のファンに話しかけてる時は冗長だった」と言った。

週刊文春は、60年代に若かった日本のファンのために、コンサートをノスタルジックなイヴェントとし、ディランを過去へと押しやった。記事では観衆は「まるでモーツァルトを聞きに来てるかのように膝に手を置き静かに音楽を聞いていた」と書かれていた。

週刊明星は、コンサートに来ていた有名人をリポートすることでディランを却下した。それは美空ひばりがコンサートの幕間に帰ってしまったということだった。「私はビートルズを聞きに来たのではありません。もっと何かフォークソング的な音を期待していましが、むしろ音は…最後まで居るつもりでしたが、もう分かったと思ったので途中で出ることを決めました」さらに白いキャデラックに乗った後で、「岡林君の方がディランよりずっと良いです。日本のフォークシーンをもっと支えるべきです」と付け加えた。



※論文は来日がメインでは無く、あくまでも60年代~70年代の日本におけるディランの受容についてである。

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というわけで、前回のエントリーの、皮肉めいた「禅(の時代)」というディランの答えに繋がるわけだが、同じく前回のエントリーの後半に英文で質疑の内容を一部載せたが「日本に来た動機は?」というアホみたいな質問に、ディランが「動機?」と聞き返している、これにしても質問者は内心、借金のためだろうと思いつつもディランがそんな事を答えるはずも無く、お決まりの…例えば「日本が大好きで」とか「ファンに会いたくて仕方がなかった」とか言った類の物を期待したのだろうが、そうは問屋が卸さない(笑)。一方で、「禅」と答えたのは確かに皮肉だが、それはディラン流のへその曲がったサーヴィスだったのかもしれない。「これが欲しいんだろう?」みたいな。

初来日時は未発表の音源がよく言われるが、プレスカンファレンスすら完全な形で見た記憶が無い。またオン・オフステージとわずに撮られた膨大な写真。それらを出すのは色々と大変なのかもしれないが、出来れば出して頂きたいものだ。必ず売れる。世界中で売れる事を保証します(笑)。それにしても平凡パンチがグッジョブすぎて泣ける。



































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2 コメント

匿名 さんのコメント…
ワイト島でコメントいたしました美津留です。
初来日公演の日に強風で東西線の車両が倒れました。
九段下まで東西線を予定していた私がどのルートで武道館にたどり着いたのか忘れましたが開演前に到着してホッとしたことを覚えています。
激しい雨が降るのバンド演奏に続いて1曲目はブルースでした。
74年のバンドとのツアーでも1曲目はブルース曲と何かで読んだのでこんな感じだったんだなとひとりでうれしくなりました。
ディランは目の上にアイシャドウをしていて首にはしやれたマフラーを巻いていました。
髪の毛はライトのせいでオレンジ色に見えました。
翌日のスポーツニッポンに写真と一緒にコンサート評が書いてありました。
岡林が美空ひばりともみくちゃになっている写真も載っていました。
美空ひばりのコメントも載っていました。
当時生徒だった私は親に頼んで初来日公演のチケットを2日分買ってもらいました。
あと1日は並んで当日券で入りました。
おそらく会場内では一番若いディランファンだったと思いますが今では普通のおやじディランファンになってしまいました。
初来日公演の奈良と京都の旅行に行きました。
竜安寺に行くのが目的でした。
ディランと同じ場所に座って石庭を眺めました。
ただ同じ場所に来れたそれだけで嬉しかったです。
今も初来日と同じ気持ちでディランのライブに通っています。

smz さんの投稿…
風で列車が倒れたんですか!すごいですね。

マフラー、おしゃれですね。スーツも。ラスヴェガス風にめかし込むってマネージャーが言ってましたが、この事かと思いました。

自分もただのおっさんになり、ディランは爺さんになりました。何か不思議です。て、S&Gの歌の歌詞のようですが…

美津留さん、
コメントありがとうございました。