ディランをウッドストックから盗む
1969年…彼は23歳だった。それまでの人生で1度もパスポートすら持った事が無かった。それが3,000マイル以上離れたニューヨークに一人で飛ばされた。
その先では、ボブ・ディランのマネージメント達がワイト島のフェスティバルにディランを出演させる理由をきくために彼と彼の兄を待っていた。そのフェスティバルは前年、スイミングプールのための資金集めのために始まったものだった。まるでハリウッド映画のストーリーのように思うかもしれないが、実際にレイ・フォーク(Ray Foulk)に起こった話だ。レイが16歳で学校を出た後、他の兄弟(ロニーとビル)と共に1968年にワイト島フェスティバルを設立した。
レイ:私たちはジャンボジェットでニューヨークへ行った。もう頭ががぶっ飛ぶほど興奮していた。朝の9時に出発して昼の12時に着いた。時差のせいだ。その後ディランのマネージメント達とマンハッタンのチャイニーズレストランで食事をした。
レイは自分が若く見られる事を心配していた。ディラン側には「私は27歳だ」と言った。この若きレイが、ウッドストックに引きこもっていたディランをいかに説得しフェスティバルに出演させたのか?
レイ:私たちがあまりにも気楽だったから同意したんだと思う。もしタフな交渉をしていたら「我々はここで何をやってるんだ?」と考えただろう。多くの人達は、マネージャーに面と向かって金を押しつけていたが、それは彼には何の影響も無かった。それで私たちは別角度からアプローチした。それは島の美しい自然、文化遺産…特に、テニスン、キーツ…彼の好みに合ったものをボブに売り込んだ。ショー以外の日はそれらが楽しめますよと…。次に金の問題が来た。全部で8万7千ポンド、今の金額で72万5千ポンド(1億3千8百万円)、そんな金は全然持ってなかった。
金を都合するために兄弟は保証人が必要だった。ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの学生だった兄のビル(24歳)は、コネを使って何人かの保証人を得た。母親のエラも彼らを助けた
レイ:保証人になってもらうために、母親の会計士と会わなければならなかった。会計士は母親に保証人になるなとアドヴァイスしていた。それは5千ポンド、今の金額だと10万ポンド(1千9百万円)…なのでこの話は沈没すると思っていた。でも彼女は「いいですか。私は子供達を完全に信じます。したがって私がその金額の価値があるという確認の手紙をよこすことを指示します」と言った。私は凄く驚いた。
ディランのギャラは1時間のパフォーマンスで4万ポンド(764万円)で同意していた。そしてQE2での船旅もセッティングされた。しかし船旅は実際には無かった。ディランの3歳の息子ジェシーがキャビンで頭を打ち病院に運ばれたからだ。幸いたいした事は無かったのだが、フォーク兄弟は自分達の夢が潰えるのではないかと肝を冷やした
レイ:ショーの2週間前に電話を受けた。全ての書類はディランがワイト島に現れない可能性を示唆していた。かなりゾッとするものだった。
結局ディラン達は飛行機でワイト島に着き、スタッフ等と共にベースとなる16世紀の農家(弟のビル、22歳が借りて用意した)ベンブリッジ(Bembridge)近郊のフォーランズ・ファーム(Forelands Farm)に向かった。ジョージと妻のパティ、リンゴも到着していた。そこにはプールやリハーサルが出来る物置もあった。
レイ:スイミングプールにみんながいた。ボブとジョージが座って話をしていた。ボブのマネージャーのバート・ブロック(Bert Block:グロスマンのパートナー)が「見ろよ、あの二人。お互いがスターに夢中(star-struck)だな」と耳打ちした。ジョージは録り終えたばかりのアルバム、アビーロードのアセテート盤を持ってきていた。それを物置のレコードプレイヤーでかけた。凄く羨ましい雰囲気だった…しかし、ジョンとポールが彼に2曲以上させなかった事への不満を愚痴ってばかりだった。私は全てをオープンに話す事に驚かされた。あるときリヴィングルームでジョージとボブがエヴァリー・ブラザースのAll I Have to Do Is Dreamを二人でデュエットしていた。ファンタスティックだった。
※アル・アロノウイッツ:ディランがテニスの試合のためにビートルズをフォーランズ・ファームに招待した。ジョンとボブ、リンゴとジョージが組んだとき「これは世界で最もスクープなダブルス」と言ってパティは笑った。
レイ:表面上は落ち着いていたが、時折そのマスクが剥がれた。たとえばハウスキーパーがディランに島の観光にと彼女の車を貸そうとしたとき、車の窓に"Help Dylan Sink the Isle of Wight"という宣伝用のステッカーが貼ってあるのを見た彼は、イライラしながらそのステッカーを剥がそうとしていた。長い爪でステッカーを剥がしていたのを覚えている。突然キレて「くそっ!アホステッカーめ!」と言い本当に怒って出て行った。彼はすぐにカッとなるのだとわかった。
人々とコンタクトが取りやすかったので取引が出来たとレイは言った
レイ:今日のほうが、はるかに難しいと思う。たとえば、あの頃のように今は連絡できない。ブルース・スプリングスティーンに連絡する事を想像してほしい…今は私たちがボブ・ディランにしたように彼のマネージャーに電話ができないだろう。近づこうとすると秘書という軍隊によって遮られる。(当時は)電話を持ってる人はそう多くは無かったし、交渉も簡単だった。たとえば1969年の著名人簿を見れば、大勢のセレブと一緒に彼らの電話番号が載っている。ただそこに電話するだけだ。
レイと兄弟は、このワイト島フェスティバルの前年に、ロックンロールのプロモショーションを経験していた
レイ:兄のロニーは、プール建設のチャリティー資金調達者に選ばれ、資金調達のためのイヴェントを探した。一晩だけのフェスティバルだと想定されていた。大きな取引を意味していなかった。しかし、ジェファースン・エアプレインとアーサー・ブラウンを獲得した。実際、そのフェスティバルはとても大きなものになり、チャリティーが抜けてその後を任された。そうでなければ、ワイト島フェスティバルは、IWISPA(Isle of Wight Indoor Swimming Pool Association:ワイト島室内プール協会)になっただろう。
※結局のところこれが第1回目のIOWフェスになる
初めてディランに会う…それはレイにとって神経をすり減らす経験だった
レイ:私たちはディランとドレイクホテルで会った。ディランとマネージャーのバート・ブロックは、私たちのホテルの部屋にやってきた。彼はかなり内気で静かだった。彼は既にイヴェントにコミットしていたので、面談という感じはしなかった。彼は自分が誰と契約したかを知りたかっただけだった。彼はかなり控えめだった。サングラスをかけ、レザー・ジャケットにジーンズを穿いていた。通りを歩いていても彼とは気づかないだろう。ほとんどの会話は、サウンド・システムについてだった。彼はそのことに非常に興味を持っていた。
フェスティバルの当日レイは、リングサイドに陣取った。ディランのステージは9時からの予定だったがトラブルで2時間遅れた。にもかかわらず、ディランは興奮した様子でステージに現れ、まるで高校生のようにギターを誇らしげに振りかざし、晴れやかに言った「ほら、ジョージのギターを貰ったよ」
レイ:金曜日の夜、現場に着いてステージに上がった。私は何も知らされずに傾斜路を上りそして観衆を見渡し衝撃を受けた。まるで人の海だった。心臓の鼓動が激しくなった。「wow、僕らは一体何をやらかしたんだ?」と思った。ディランの演奏が始まった時、ステージの袖で彼を見た。観衆を見ることも出来た…暗かったが色んなところで人々がライトを点滅させていたので見ることが出来た。私は音楽に集中した。そしてそれが終わっていく課程を本当に印象深く覚えている。全ては突然起こった。(演奏が)続かなかったのでがっかりした。1時間の契約で彼はそれを果たしていたが、もう2,3曲、期待していた。白いスーツを着てソフトヴォイスで歌う新しいディランのインカーネーション。
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[Backstage photo]
ウッドストックの11日後に開催された1969年のワイト島フェスティバル。兄弟は知らない間にディランをウッドストックから奪っていた。もしワイト島に出演していなかったらウッドストックに出ていたのだろうか? それはわからない。2時間遅れた理由をメディアはあれやこれやと書いた。10時、ザ・バンドのセットが始まるが、会場の音も悪く彼らの勢いも今ひとつだった。10時35分、I Shall Be Releasedを演奏したが、観衆の多くは「ディラン」と叫び続けていた。10時50分、The Weightの頃には完全に自分達のノリを確保していたが、バンドのセットは終わった。その後、果てしないマイクチェックの後ディランが現れた時には、ついに観衆は総立ちになり激しくフラッシュがたかれ、花火が打たれた。
ディランがデイリー・ミラーのドン・ショートに3時間するかもしれないと言っていたので、観衆はかなり期待していたようだ。また前日30日のメロディー・メイカーの1面には"DYLAN, STONES, GEORGE HARRISON, BLIND FAITH-SUPERSESSION AT ISLE OF WIGHT"という見出しが打たれた。ただし小さく「もし、ボブが承諾すれば」と書かれていた。まるで日本のどこかの新聞のようだ(笑)。
レイ・フォークの著書、Stealing Dylan from Woodstockは今月4日に発売された。
▼Stealing Dylan from Woodstock (facebook)
▼How I stole Bob Dylan from Woodstock (The Portsmouth)
▼How the Isle of Wight festival managed to steal the voice of a generation from Woodstock(Independent)
▼No Direction Home: The Life and Music of Bob Dylan by Robert Shelton
▼Isle of Wight Festival 1969(wikipedia)
PS
※ここに写っているのは、シド・バレットに間違いないようだ。隣にいる女性グレタ(Gretta a.k.a. Margaretta Barclay)がそれを確認した。グレタの彼氏ラスティーがシドを音楽に引き戻そうと励ますために、フェスティバルに来たそうだ。
David Hurn - GB. Isle of Wight Festival (Magnum Photos)
5 コメント
ワイトの演奏は昨年のアナザーセルフポートレートで初めて聴きました。
ディランの甘い声にびっくりでした。
ブックレットにはクラプトンなどの写真がありましたけどポールとミックジャガーの写真はありませんが来なかったのでしょうか?
当日会場にはシドバレットがいたらしい?ですが未発表だった彼のボブディランブルース何となくワイト島のラモナーへに似たメロディーなのでびっくりでした。
シドバレットの頭のなかにワイト島のラモナーへが残っていたのラモナーへが残っていたのでしょうか?などなど想像して楽しんでいます。
ワイト島の話しとても興味深く読みました。ありがとうございます。
事前にストーンズのスポークスマンから「イヴェントのチケットを16枚手配した。キース、チャーリー、ビル、ミック・テイラーは多分行くだろうが、ミック・ジャガーはオーストラリアで撮影があるので行けない」との発表があったようです。
http://www.ukrockfestivals.com/iow69-hype.html
ポールは、ちょうど3日前(8月28日)に娘のメアリーが生まれたため、ロンドンにいて来れなかったようです。
http://www.beatlesbible.com/1969/08/31/lennon-harrison-starr-watch-bob-dylan-perform-isle-of-wight-festival/
シド・バレットのボブ・ディランのブルース、書かれたのは、1965年ですが録音されたのは1970年なので、ライヴを見て何か影響を受けた可能性はありそうですね。彼はとっくに死んだと思い込んでいたので、晩年、突然メディアに登場したときは本当に驚きました。でもすぐに亡くなってしまいましたね…
美津留さん、コメントありがとうございました
シドバレットって髪型もディラン風です。
でもシドバレットだけでなくその時代のディランの影響力の凄さにはただただびっくりです。
想像してもやもやしていたことがはっきりご回答いただきましたのでうれしいです。
ありがとうございました。
美津留。
今更ですが、ワイト島から思えば最近のマイクの2本とかって、まだまだですね。
ワイト島はディランだけのセッティングだったんですかね…
ほかの人でこんなセッティング見た記憶ないような…
複数のマイクは、ディランのセットの録音のためだと聞いたことがあります。
ディラン事なのかわかりませんが、録音用にPAとは別にマイクを立てたと言ってます。
http://www.soundonsound.com/sos/dec04/articles/iow.htm
ヘッド分け…パラッたりすることは可能だったと思いますが、それをしたくなかったのかもしれません。「Pye Mobileが最新のマイクで、ディランのセットを録音しそれが2013年のAnolIter Self-Portraitでリリースされた」とレイは言ってます。
ISIS-Mag.pdf
Pye Mobile
http://www.philsbook.com/pye-mobile.html
0_Lady_0さん、コメントありがとうございました