Don't Look Back



ケン・リーガンがバックステージにさえ入れて貰えず、客席にいたボブ・ディランの母親を撮りまくった1974年のバンドとのツアー。そのツアーでディランと共に専用ジェット機に乗りリムジンで送迎を受け、バックステージはおろか何処でも自由に出入りを許された写真家...それがバリー・ファインスタイン(Barry Feinstein) だった。



1931年2月4日、フィラデルフィアに生れた。写真を学んだ事は無かったが、 10代の頃、アトランティック・シティーのレース場で働き写真に目覚め、その後、フィラデルフィアでカメラマンのアシスタントとして働き始めた。

1957年、カリフォルニアに移り、コロンビア・ピクチャーズで仕事ををする。コロンビアでは写真では無く映画製作の見習の仕事をしていた。

見習の仕事をしながらも写真の依頼も受けていた。写真の専門的な教育も受けておらずましてユニオンにも所属していない事はプロとしてやっていく上での障害となったが、極めて必要とされる暗室の技術だけはラボの友人の手を借り試行錯誤して学んだ。





ルック・マガジンから依頼されたスティーブ・マックィーンの写真が好評で、それがきっかけとなり仕事が増え始めた。マリリン・モンローが自殺したときにも彼に連絡が来た。バリーはそこに横たわっているスターの死体を撮らず錠剤のビンを撮った。







カリフォルニアに移って直ぐの1958年、バリーは、映画製作の見習をしながら夜はL.Aのナイトクラブでアルバイトをしていた。そこでアルバート・グロスマンと知合った。グロスマンはピーター、ポール&マリーの宣伝用の写真のためにバリーを雇った。1年後、バリーとマリーは結婚した。

ある時、マリーがニューヨークのライブハウスであったディランのコンサートにバリーを連れて行った。そこでバリーは初めてディランを見た。そして二人はすぐ良き友人になり、グロスマンはバリーに、ディランの次のアルバムジャケット撮影を依頼した。イーストサイドの高層ビルの中庭で行われたその撮影は10分で終わった。







1966年、ディランのワールドツアー。バリーは、イギリスから同行する。ディランの依頼もあったが同時にライフ誌からも依頼を受けていた。ライフ誌からの記者も同行した。しかしこの時の記事や写真はディランのバイク事故で全てボツになってしまった。

2005年、ジョエル・ギルバートが「BobDylan World Tours 1966-1974 Through the Camera of Barry Feinstein」というタイトルのドキュメンタリーをリリースした。この中でジョエルがバリーにインタビューを行っている。

以下はそのドキュメンタリーから。1966年と1974年のツアー写真の説明と、ディランのバイク事故に関してバリーが言った事をなどを字幕を使わせて貰う。


アルバートとボブが笑顔でリムジンに乗っている。こんな表情の二人の写真は貴重だ


カーナビーストリートでブーツを履いてるボブだ。うまく説明できないが、ピンと来る瞬間があるんだ。その時シャッターを切るだけだ


ステージの写真はあまり好きじゃない。沢山撮ったが得意じゃない。ステージは仕事ではなく客席で楽しみたいそれが本音だ。ライトを浴びてピアノを弾くボブがロマンティックに感じる写真だ。ステージ写真の中では良く撮れた方だと思う


タバコを持つボブの手。おもしろ写真だろう? 数々の名曲を生み出す手だ。価値のある一瞬だと思って撮った


ポスターにサインをしてる珍しい写真だ。「God Breathe Bob Dylan」と書いたはずだ。ボブが鏡に写っている


これはフェリーに乗りウエールズへ向かうところだ。これはQマガジンでロック部門のベストショットに選ばれた写真だ。後ろにハワード・アルクがいる


このときはエレキで沢山演奏したんだ。ステージに駆け上がってボブにパンチをぶちかました女性がいた。エレキを弾いたことに腹をたてたんだ


ロイヤルアルバートホール、サウンドチェック。客席に居るのはボブだけ。片手にライターを持っている神秘的な感じがする写真だ。誰もいない客席にボブが独りで座る。お気に入りの一枚だ


パリのホテル。外の通りでファンが出待ちしていた。ボブはファンを見て気に入った女の子を部屋に呼びにいかせた。いかにもフランス人らしい小洒落た感じの女性だった


アイルランドの女流詩人と一緒の写真だ。ボブの部屋で詩を朗読してくれた。ボブは彼女の詩をとても気に入っていた







バリー:ツアーが終わって写真をライフ誌に渡した。彼らが写真を現像し僕がチェックをした。掲載される予定だったんだが、いわゆるバイク事故でボツになった。だからゲラ吊りとネガは返して貰った。僕はバイクを持っていた。650ccのトライアンフだ。ボブも欲しがってた。僕が紹介したブロンクスの店で購入したんだ

ジョエル:いつ事故のことを?

バリー:事故を知ったのは数日後か1週間ほど経った頃だろう

ジョエル:ボブに連絡を入れたの?

バリー:いや、アルバートに連絡をした

ジョエル:何故、『いわゆる事故』と?

バリー:自分で見たわけじゃ無いからだ。事故かもしれないし、転倒しただけかもしれない。バイク歴の長い愛好家として言わせて貰えれば、バイク事故は悲惨なものだが、ボブのケースはそれほどの大事故だったとは思えない。事故の後、彼のバイクを見たがつぶれてもいなかった

ジョエル:ボブは首の骨を折ったという人もいれば、休養したくて、あえて事故を起こしたと言う人もいる

バリー:首は折ってないさ。ボブはエネルギーを充電したかったんじゃないのかな。ツアーの連続であの頃のボブは忙しすぎた

ジョエル:アルバートに休養を申し出ることは?

バリー:そう言われればアルバートは快く承諾しただろう。でもボブは自分を追い込みあの状況になったんだと思う





ジョエル:74年の復帰ツアーのことはいつ知りました?

バリー:風の便りだ。ツアーの何ヶ月も前に各新聞に広告が載った。チケットは完売だよ。ツアーが始まる前に数百万ドルを得たんだ。チケットを取れないファンも大勢いた。席に限りがあるからね。プロモーションのやり方が上手かった。ツアーに同行してほしいと頼まれた。勿論OKだと言った。ギャラは担当者と話し合い決めるように言われたが、申し分ない条件だった

ジョエル:撮影に制限は?

バリー:ない

ジョエル:飛行機内でも?

バリー:ああ、もちろん撮ったよ。乗客は僕たち11人だけだった。ボブとバンドメンバーにそしてスタッフだ。ジェット機を借り切ってね

ジョエル:快適でした?

バリー:ベッド、バー、食べ物など最高のもてなしで至れり尽くせりだった。ヴィデオ・デッキもあって楽しめたよ。空港の指定場所に行くと飛行機が待っていた。乗り込むときに封筒が手渡される。ルームナンバーが書いてあるんだ。メンバーもスタッフも全員に新たなニックネームが付けられた。飛行機が着陸すると今度は、ホテルのルームキーが入った封筒だ。そしてリムジンでホテルへと向かった。チェックインもチェックアウトもなし。それまでの生涯で最高のツアーだった。バックステージは僕たちだけ。「こんな手厚い待遇はまたとない」と思ったものだ。次のツアーに誘われたが同行する気にならなくてね。比較してしまいそうだと思ったからさ





ここは紳士用トイレだ。用をたすリチャードと髪を整えるロビー。この滑稽さが気に入っている


ボブは時々床でストレッチをしていた。ボブが床で寝そべる姿などめったに見られるもんじゃない



これも開演前の控え室でのボブ。ギターをかついでいる。こんな姿を見たのは僕もこの時が初めてだった



有名なビル・グラハムだ。ライブのマネージメントで大活躍してくれた。見たとおりのタフガイでズバリ正論を言い切る


ジミー・カーター元大統領、当時はジョージア州知事だった。コンサートの後、朝食に招待してくれた。州知事官邸内でのボブとカーターのスナップ。二人は非 常に気が合った。州知事官邸に豪華なスイートルームがあった。何人かで部屋の中に足を踏み入れたんだ。ドアが開くとカーター知事が険しい表情で何て言った と思う?......「問題を起こすなよ」.....そう言い残してドアを閉めた。愛すべき人物だった


バックステージで撮影している最中に、陽気な顔も撮ってみたいとボブに話したことがあった。するとステージでふり返り最高の笑顔を見せてくれた。「Thank You Bob!! ボブのステージの写真の中でこれが一番気に入っているよ」




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インタビューでも答えているが、バリーは次のツアー、どころか二度と誰のツアーにも同行しなかった。74年のツアーがあまりにも良かったからもうツアーに同行しないと誓ったそうだ。

バリーが断ったからケン・リーガンにチャンスが回ってきたのかも知れない。

映画の仕事もしていたようで、イージー・ライダーのテストショットにカメラオペレーターとして参加していた。ニューオリンズでのロケで、現場はカオスになり、誰も彼もが演出に口だしを始めた。カオスになった原因は酒とドラッグだったが、そんな中デニス・ホッパーは「この映画は俺様のものだ、誰も奪い取る事は出来ない!!」叫び、どんどん暴君ハバネロになっていった。雨の中の撮影でメインのカメラオペレーターだったバリーと喧嘩になった。デニスはギターを壊しテレビをバリーに投げつけた。この時点では正式な脚本家もカメラマンも決まっていなかった。このあとデニスはスタッフを入れ替え正式なクルーを集めた。

マリー・トラヴァースと別れたあと1969年にキャロル・ウェイン (Carol Wayne)と結婚するが直ぐに別れ、1976年ジュディー・ジャミソン(Judy Jamison)と暮らし始めた。ジュディーの二人の息子も一緒に暮らし始め、またマリーとの二人の娘とキャロルとの息子も同じくウッドストックのバリーの家で暮らす事になり家族はどんどん大きくなった。2000年にはジュディーと正式に結婚した。

1993年に不幸にも、酔っぱらいの運転する車にはねられ、腕に致命的な傷を負ってしまった。長い回復期間を経てバリーはディランから学んだ「過去を振返らず前進しろと」という信条を破り、これまでの自分の作品を「回顧」して2008年、2冊の本を出版した。

Hollywood Foto-Rhetoric: The Lost Manuscript」は形の上ではディランとの共著になっている。また「Real Moments」のペーパーバック判は大きな成功を得た。

500枚以上のアルバムのカバーを撮り、30を越える国際的な賞を受賞した写真家は、10月20日、老衰で亡くなった。80歳だった。モリソン・ホテル・ギャラリーのオーナーでバリーの代理人でもあるピーター・ブラックリー(Peter Blachley) は「トップ5のロック・フォトグラファーだ」と言いwebに追悼文を掲載した。






Icons through Nikons, soul on film: photographer Barry Feinstein (Roll Magazine)
Barry Feinstein, Photographer of Defining Rock Portraits, Dies at 80 (NYT)
You Are What You Eat





それにしてもバリーの写真解説.....「ボブがドアの横にいる」とか「これはボブがギターを弾いてるところ」だとか....そんなの見たらわかりますよ先生!! みたいな.........あとドキュメンタリーに恐らく亡くなる直前くらいのアロノウィッツが出てくるのだけど....長年のボブとの交流で後悔などあるか? と聞かれ「自分がバカだったことだ」と答えるのだ。それを聞いてジョエルは思わず笑ってしまうのだけれど、おちゃめというかかわいいといか........


ディランを撮るバリー(74年のツアー)




Suze Rotolo, Bob Neuwirth with Barry and Judy Feinstein, The Bowery NYC 2008



Top photo : Three Masters, Barry Feinstein, David Gahr and Jim Marshall (2004)

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